無料ブログはココログ

« 恋愛的演劇論(『現実と虚構について』・改題)・3 | トップページ | 恋愛的演劇論・5 »

2011年4月30日 (土)

恋愛的演劇論・4

まず、「恋をする」「恋心を持つ」というところから、それが種族を遺す性愛を基底にしているという動物的、植物的な部分はエポケー(括弧に括る)ことにする。もし、そこに何かが生ずる場合は、それは二義的なものとして扱う。つまり、生殖本能、性欲についてと、「恋」するココロについての幻想は別個に扱って差し支えないという、前提、帰納的命題を置きたいからだ。この前提、帰納的命題は、恋愛抜きでもひとはいくらでもsexすることが可能だという、逆理からきている。
恋の謎は、宇宙の謎よりも深く難解だ。ここでは、そういう難問について何か述べることを目的とはしない。いうなれば、その恋心(幻想)に現れる「コトバ」と対の当人同士の変容を、現実と虚構の視点で追ってみたいだけだ。幸いにも、日本には、和歌・短歌という優れた恋の文学(虚構)がある。『百人一首』から、ポピュラーなものを選んでみる。

「忍ぶれど 色に出にけり わが恋は 物や思ふと 人のとふまで」(平兼盛)

などは解釈の必要もナイ歌だ。また、

「あひ見ての 後の心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり」(中納言敦忠)

も、よく知られて、解釈の必要がナイ。この和歌に共通するのは、どちらも、即自的(自分が自分に述べている)なことだ。これに対して(諸説はあるが)法然に恋をしていたとされている式子内親王の

「玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りをもする」(玉というのはたいせつなものの意、玉の緒とは命、つまり我が命よ絶えるなら絶えよ、生きればいきるほど、恋を隠しおおせる力が弱まってくる、という解釈になる)

は、対自的(何かに対しての自らの変容を述べる)になり、この二人の交わした和歌

「露の身に 結べる罪は 重くとも もらさじものを花の台に」(式子)

にたいして、法然は

「露の身は ここかしこにて 消えぬとも こころは同じ 花の台ぞ」

と返歌している。これは対他的(他のものに対して述べたもの)だ。ここで「台」というのは「うてな」と読み、本来は高台の意味だが、極楽浄土の蓮の花の台座というふうに解釈する。そう解釈すれば、現世では無理だが、極楽で契りましょう、ということになる。このとき、対自的な、最初の式子内親王のものは、自ら発したコトバによって自らを変容させていることになる。これは前回述べた、〔「語る側、書く側」が語ったもの、書いたものは「語る側、書く側」に対して逆に変容を強いることはナイのだろうか〕に呼応するところだ。つまり、自分が自分に向けたコトバによって自分を虚構化しているとみてイイ。このときの虚構化というのはナニなのかといえば、現実の「私」はたしかに存在するのだが、それに対して、変容した自分もいるのだ、という「二重化」を示す。つまり、ここでは「コトバ」は二重化されていることになる。これは、先述した短歌の「コップ」が、現実のコップでもあるが、虚構においてmetaphorを持った「コップ」になっているのと同じことだ。この二重化は、「コトバ」の持つ、一つの宿命のように思われる。

« 恋愛的演劇論(『現実と虚構について』・改題)・3 | トップページ | 恋愛的演劇論・5 »

演劇」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/558792/51532419

この記事へのトラックバック一覧です: 恋愛的演劇論・4:

« 恋愛的演劇論(『現実と虚構について』・改題)・3 | トップページ | 恋愛的演劇論・5 »