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2011年4月30日 (土)

恋愛的演劇論(『現実と虚構について』・改題)・3

タイトルを改題した。なるべくワカリヤスク(ワカリヤスクというのは、身の丈、身近でそれを考えることが出来るということなのだが)したいからだ。しかし、この小論で私が述べたい、考えてみているのは、「現実」と「虚構」との関係についてだということに変りはナイ。「現実は虚構ではナイ」「虚構(fiction・metaphor)から現実は生じない」「然らば、現実と虚構はどう対峙するのか」ということについて、私の主に関わっている分野(territory)である演劇から、それをいいたいだけだ。ここにおいて、なにをアタリマエのことをいまさら、という感想と、そんなことならすでにポスト構造主義思想はいってるよ、という輸入専門店の門前の偽インテリ小僧のいう声を聞くことも出来るが、私は演劇においては、まったく輸入の演劇論を信用していないので(といって、国内の演劇論・・・そんなものがあればだが、それも信用していないので)、私なりに、稚拙であるにせよ、少しずつ前に進みたいだけだ。
絵画や文学や音楽と違って、演劇が現実のものと誤解されやすいのは、もちろん演じられる劇において生身の役者が舞台で役を演じるからだ。映画はscreenの中の出来事だ。たとえ、役者が観客席に降りてきても、観客席から登場しても、それは現実ではナイ。ただし役者が演技の途中でほんとうに死んでしまえば(心臓麻痺とか脳卒中とか)、それは現実のことだ。演じられる劇が街の中で行われようと、現実ではナイ。
しかし、唯一、例外が存在する。それがいまこの小論でとりあげている言語、「コトバ」だ。私たちは、日常でもコトバを使うし、それは戯曲において書かれる劇においても、舞台で演じられる劇においても、意味を崩さないようにみえる。
ここで、前回立てた問題〔「語る側、書く側」が語ったもの、書いたものは「語る側、書く側」に対して逆に変容を強いることはナイのだろうか。もう一つ、「もの」は、「語る側、書く側」の心的表出に忠実に、語られ、書かれているのだろうか。言語にかぎっていえば、表現は心的表出に正しく従っているのだろうか〕を改題したとうりの「恋」ついてあてはめてみる。少し回り道をしているようにみえるが、日常的(現実的)に最も虚構に近いと思えるのは「恋」であるし、先述したように当人にとって最も現実的(real)な問題はほかならぬ虚構に近いromanceだという目星をつけて、その類似性、もしくは同義性から、現実と虚構に接近する。つまり、ここに男女の対がある。のっけから好いた惚れたはナイとして、何れかが、何れかに想いを寄せるというところから、いうなれば恋の発端から、この現実と虚構を考えてみる。

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