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2011年4月26日 (火)

現実と虚構について・2

結語めいていえば、現実を「語ること」という行為がすでに演劇なのだ。何故ならば、コトバというものは、すべてメタファーを含んでいると考えてイイからだ。心的表出が言語(書き言葉にせよ、音声にせよ)という表現に置き換えられるとき、そこには、必ずメタファー(比喩・譬)があるのだから。写実的表現、リアリズム演劇、そこにも、メタファーがあふれている。現代演劇の黎明期において、リアリズム演劇と距離をおいた岸田國士の戯曲が、どれだけ多くのrealityを持っていたか、彼の現実を観据える眼が、如何に優れていたか。彼は演劇における戯曲の優位性を説いた。(演じられる劇に対して書かれた劇が単にそのprocessとしてしか扱われていないことに異議を申し立てた)それは昨今のワークショップやら演技メソッドのシステムやらが戯曲との関係性を無視するか、あるいは関係づけられずにいるか、関係づける能力がその指導者にナイかに対する異議申し立てと何のかわりもナイ。
現実というのは、すべてがカントの述べた「もの自体」だから、その「もの」をコトバで語るとき、あるいは文章で書くとき、「もの」に対しての語る側、書く側の表現(心的表出)が含まれる。カントは『純粋理性批判』では先験的な対象と、悟性的な対象は仕分けているが、これは彼が概念として仕分けた先験的なものに対しても同様になされる営為だと考えてマチガイではナイ。たとえば、彼が先験的対象の概念であるとした「空間」というものも、それが言語化するや、必ず、表現(心的表出)を含むからだ。。「もの」と語る側、書く側との関係や了解が、そこで終われば、ほとんど問題はナイ。何故なら、語る側、書く側は、語ること書くことによって、「もの」を「もの」として手に入れたこと(識知したこと)になる。さて、やっかいなのはここからだ。「もの」を手にした語る側、書く側は、「ものを手にした語る側、書く側」へとの変容を余儀なくされる。識知した対象によって、識知した者が変容する。これがヘーゲルの弁証法と称される運動だ。さらにこの観念論的弁証法を唯物論的弁証法に、つまりマルクスふうに進めると、「もの」を手にした語る側、書く側によって、「もの」は、語る側、書く側に従うように「人間化」される。つまり身体か観念の延長上に変容される。例示すれば、ハサミは指の変容であり、グローブは手の変容であり、コップは掌の変容であり、靴は足首から下の変容であり、このパソコンは人間の計算能力、脳のアルゴリズム・リテラシーの変容だといえる。これらの事象も、とりたてて問題になることではナイ。ずいぶん便利だなですんでしまう。素手でパスタを食べるより、フォークがあったほうが便利だからだ。
そこで、こういうふうに問題を立て直してみる。問題は二つある。「語る側、書く側」が語ったもの、書いたものは「語る側、書く側」に対して逆に変容を強いることはナイのだろうか。もう一つ、「もの」は、「語る側、書く側」の心的表出に忠実に、語られ、書かれているのだろうか。言語にかぎっていえば、表現は心的表出に正しく従っているのだろうか。たとえば、「コップ」と「いう」、あるいは「書く」、このときの「コップ」はどんなコップのことなのだろうか。どのような言語も表現されたときには、fiction、metaphorを含んでいることは先述した。現実的にコップなるものは、私が「コップ」といっても、誰かが「コップ」といっても、差し支えない程度の普遍性を所有している。どちらも同じことをいっている(書いている)ように思える。これは、ウィトゲンシュタインの前期言語学に至っては、ある言語に対応するものが、この世界には存在するという、根拠になっている。けれども、
  きみがいま飲みのこしたる水割りのコップみつめる恋の終わりは
という短歌に示されたコップは、単なるコップではナイ。その「コップ」はmetaphorを多く含んでいるし、この短歌自体は虚構である。しかし、それでもコップは現実のものでしかナイ。そうすると、ここでコップをみつめているこの短歌の作者は、「コップ」→「コップとそれをみつめている私」→「コップとそれをみつめている私とコップ」という変容の運動から「コップ」という現実と、「私」という現実の、「関係と了解」を心的に表出して言語として表現したことになる。このとき、初めてコップは(普遍的にウィトゲンシュタインがいうような対応ではナイ)「私」と対応するmetaphorとしての「コップ」という「コトバ」となる。~心的に表出して~という行為が文学的に過ぎる(解りづらい)と思われるのならば、単純に「操作・function」してといい換えてもイイ。何れにせよ、ここで述べたいのは、コップという現実と、「コップ」という表現があるという、そういうことだけだからだ。そうして表現されたコップは、すでに現実のものではナイ。作者との「関係と了解」よって、変容されたmetaphorであり、fictionだということだ。

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