あんたに、まかせたいんだけど、も。
イエス・キリストがゴルゴタの丘で磔刑に処されたとき、同時に十字架に拘束されていたのは、バラバという悪党だった。死刑執行管の「どちらを赦すか」という問いかけに民衆は「バラバを赦せ」と答えた。ニーチェは、ここに「大衆」というものを発見するのだが、バラバはその後、キリスト教信者となった。とはいえ、やはり信仰を棄て、ローマへとつれていかれるのだが、ここで、再度、信仰に目覚め、今度こそ「主」を裏切らないところをみせようと、罠とも知らずに、キリスト教信者とともに、火付けをした。その罪で、またも磔になるのだが、彼はそのとき「おまえさんに委せるよ、俺の魂を」といって息絶えた。(ベール・ラーゲルクヴィスト・・・スウェーデンの劇作家・小説家・詩人にして、ノーベル文学賞作家『バラバ』)
悪人が、他力本願に目覚め、「南無阿弥陀仏」と唱えるのと同じようなもんなのだが、私はそこまで悟ってはいない。私はクリスチャンということになっているし、事実、洗礼らしきものも受けているのだが、そのような暮らしも生き方もまるでしていない。だから、自称ていどのもんですがね、としか答えないことにしている。親鸞の思想は好きだが、生き方でいえば、一休が好きだナ。私が無神論者でナイ理由は一つだけだ。ただただ、そういうナニモノカに対して「何故・why」とひとこと、質してみたい義のためのみに、意地を張って、反抗しているのだ。まあ、カッコヨクいえばですけどネ。
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