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2011年4月 1日 (金)

演劇の力、その価値

マルクスに倣って「労働それ自体に価値はない」「価値は労働の対象化(労働力)されたもののことをいう」という命題から、「演じること」「演技」「演技力」というものは、それぞれ違うものだということは、以前、このブログにも書いた。これを「演劇」というもので論じるならば、演劇の力というものは、また、その価値というものは、演劇そのものではナイ。(「劇それ自体」が何であるのかは、このブログにあるので、参照してもらいたい)。
砕きながら、綴っていく。この度の「東日本大震災」において、主体と対象という分け方をするならば、カントふうにいえば、非被害地(主体)であるところから観る被災地は、「対象」となり、どのような被災かということが、概念(カテゴリ-)で分別される。数学的に解釈すれば、被災地からのベクトルが非被災地に向かうということになる。私たちはそこにさまざまな解釈の視線を送るのだが、このベクトルは逆にすることが出来る。つまり、被災地に向けての応援、援助、救済、救援だ。これは、すでに主体と対象とを同時に一つの運動体として考える、ヘ-ゲルの弁証法の領域に入る。
このとき、演劇の力や価値をこの弁証法の運動に入れるとすると、それは必ず、遅延することをまぬがれナイ。「演劇に何が出来るか」「かくなる事態における演劇の力は」と問えば、それが「力」や「価値」になるまでには、演劇が対象化されるのを待たねばならない。この場合の「対象化」というのを簡単にいってしまえば、「演劇」を観ることによって人間が手に入れることの出来る、さまざまな精神的な活力だということになる。演劇に祭儀的な要素があるのは、そのためだ。また、天皇陛下、皇后陛下の国民向け放送や、東京ではあるが、被災民への励ましの訪問や、自らの皇居自主停電から、食事を一汁一菜にしておられるという、この営為は、我々のような演劇の民の頂点に天皇が在るという証左だと思ってイイ。これは、右翼とか左翼とかの、くだらぬ心情の問題ではナイ。いまのところ、この営為がイチバン遅延せずに届いた「演劇」だといってもかまわない。
この事態において、演劇に力がナイとか、逆に演劇の力を信ずるとかを判じるのは、まったく意味がナイ。また、演劇なんかやってていいのかと、首を竦める必要もナイ。また同じようなことをいうが、まだ、私たちには、東日本大震災の様相、情報、世界、が殆どみえていないと考えたほうがイイ。マスコミは、復旧が進んでいるといったり、一進一退といったり、楽観から絶望までをごった煮のように流しているが、ほんとうのところはワカラナイと、冷静になったほうがイイのだ。
原発その他に関しては、私があちこちできっとそうなると予想して喋ったとおりに、米国が「友好的?」に介入してきた。ここぞとばかりに、右傾インテリたちは信じられるのは同盟国だと吹聴しているが、これは、来年の大統領選挙で、原発推進を示しているオバマ大統領の意向であることはいうまでもないし、また、沖縄基地を正当化する喧伝のようなものだ。これに関しても、私たちは米国にではなく、右傾インテリに対しては冷静になるべきだ。
演劇の力や価値が発揮されるのは、これから先だ。その遅延を悔しく思うことはナイ。ちぎれた指がくっついてからしか、ダイアモンドの指輪ははめられナイのだから。

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