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2011年4月30日 (土)

恋愛的演劇論・5

「恋」というものは「愛」と同様、手の上に乗せて差し出せる類のもの(概念)ではナイが、それが実在しないものではナイことを、私たちは「先験的(教えられなくても)」に知っている。だって、私たちは、誰しもひとを恋しく思い、愛しく想い、身を焦がしたり溺たりなんてことをしているからな。最悪の事態では恋愛問題のもつれからの逆恨みの殺人や、失恋自殺なんてのもあるんだから。結ばれぬ恋に悩み、愛するひととの別れに涙したりと、まあ、枚挙に暇は無い。しかし、ほんとうならば、如何ような「恋」や「愛」あってもイイのだ。ただ、時代や共同体における、意識的な、あるいは無意識的な縛りや括りによって、「恋」や「愛」が「こうしたものである」と、さまざまにシフト・・・方向転換かな、ベクトルの向きといってもいいんですけど・・・(フーコーに依っていえば、ディスクール「言説・・・その時勢を支配する権力の言語活動による主流社会状況、とでもいうのかな」とかエピステーメー「その時勢の社会における共通規範、かな」などがありますが)されてきたに過ぎない。コトバを換えていえば、そのように漠然と思わされてきた、それに従ってきた、だけだ。そうして、それが、一つの「現実」として扱われてきたものだ。しかしながら、「恋」も「愛」も、「コトバ」のうえからだけ考えてみれば、それはそれ自体がすでにfictionであり、metaphorだということは明白だし、「二重化」された意味での現実性(reality)を同時に含んでいる。このとき、「二重化」された恋や愛は(その「コトバ」は)現実の方向にも向かうことが出来るし、虚構の方向へ向かうことも可能だ。これをいうのに、双方向性というよりも、むしろ、「等価原理」として扱ったほうがワカリヤスイように思える。
「等価原理」というのは、アインシュタインの一般相対性理論から導きだされた、考え方だが、それほど難しいものではナイ。「慣性質量と重力質量」は同じ(というか、判別がつかない)というもので、まあ、待ちなさい。ここで、う~んというほどのものでもナイことを、とりあえず示すから。「慣性質量」というのは、電車なんかに乗っていて、電車が動き出すとき、その反対にグラっと引っ張られる「慣性」からきている。「慣性」(かんせい)とは、ある物体が外から何らかの力を受けないとき、その物体の運動状態は静止を続けることをいい、運動する物体に力が働かないとき、その物体は慣性系(これは一種の座標系、つまりある座標に置かれた運動体と思えばイイ)に対し運動状態を変えず、等速直線運動を続ける。これを慣性の法則(運動の第1法則)というんですが。ニュートンがいったワケです。だから、電車でグラッは電車の加速度による物体の変化と考えたほうがよくワカル。「重力質量」というのは、アインシュタインの提唱したもので、重力のあるところでは、その影響で(引っ張られて)光も屈折するというものだ。(まあ、どっちも「引っ張られる」という体感でイメージすりゃイイ)。さて、いま宇宙空間でロケットに乗ってると想像する。で、このロケットが加速を始めると、電車のときと同じ、反対方向に引っ張られる。「慣性(加速度が止まっている物体に対して影響した)質量」が働いたという。ところが、ロケットが密閉されていた場合、そのロケットはたまたま、重力の大きな天体の傍に近づいたので、その天体の「重力」の影響を受けて、引っ張られたのかも知れない。ロケットは密閉されているから、中の人間には、引っ張られている原因は、ロケットの加速度によるものなのか、天体の重力によるものなのか判別がつかない。また、この引っ張られる力が等しいものだから、「慣性質量と重力質量」は等価であるとみなしてイイことになり、それを「等価原理」という。と、そういうことなんですが、これを「コトバ」の持つ「二重化」に適応してしまおうというのだ。「二重化」は「コトバ」の宿命である「現実性」と「虚構性」だった。「愛」も「恋」も、それを同時に所有している。そこで、これを整理していうと、「恋」や「愛」は「コトバ」のうえでは等価原理であり、現実とも虚構とも「何れにも」とれる、ということになる。

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