迷える子供たち
「新宿のマカーマ1」 流山児☆祥-時代・が本日開催されるようだが、演劇を酒の肴にするというのが、いまの若い演劇人にある余裕なのか、ほんとうに「劇場から街へと出て行った演劇の歩みは、どのような必然性から、何処を目指し、何を実現しようとしたのか?芸術・運動、いやそんな区分に拘泥するまでもないけれど、何かしら行動を起こそうにも、はてこれからどんな青写真を作って進んだらいいのか、自分だけで考えても分かんないから、迷子になっちゃいそうな僕たち私たちは、とりあえずせんぱーい!話聞かせてほしいっす!!!」なのか、どちらにしても、彼らが、「自分だけ」で、何をどれだけ「考えた」のかくらいは、流山児には訊いてきてもらいたいものだ。持ち上げられて風呂敷広げるよりは、「喝ッ」と一発入れてもらいたいもんだ。私はこの主催者の甘えた文言を読んで、新宿のギャルの集いかと思ったぜ。
少なくとも、流山児は、この40年の小劇場業界において、その権威(いるんだ、そういうのが)に対抗しながら、自身の独自の演劇活動を続けてきたし、その発言(暴言)、行動力は、scandalous(にまではいかないんだけど)寺山修司や唐さんの嫡男(ではないけども)love-childではあった。
彼が、演劇で「食ってきた」というのは、エライもんだと思う。せめて、演劇の経済学、劇団経営の方法という、地道な部分に、ここに集う諸君は耳を傾けるべきだ。
ついでに、彼が何故、共産主義者同盟叛旗派(青学)であるのかもよ~く聞くといい。たぶん、彼の演劇活動の指針、主張、方向性はこのときに形成されている。
流山児も池上彰じゃないんだから、容赦なく、持論を展開して、情況論を、迷える子供たちにぶつければイイと思う。「これを手掛かり足がかり、くすんだネオンの繁華街、花の東京、ここ新宿はラヴァンデリアでグラスを掲げあなたとともに核融合?できますことを幾分望んでおりまする~☆主催たち☆」
グラスを掲げるのもいいが、要するに、流山児のところにせめて2~3年、修行にいったほうがイイんじゃないのか。
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