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2011年4月26日 (火)

現実と虚構について・1

前述の映画がつまんなかったので、没頭出来なくて(というかstressがきつくて)、いま考慮中の「現実と言語、その虚構と比喩」について、どうしても脳が動き出して、映画を観ている自分とごっちゃになり、客席で発狂するんじゃないかとほんとに心配した。
理論は理論、創作は創作だから、必ずしも理論上導き出されたとおりの作品を書く(それが書ける)ということではナイ。また、そんな必要はなく、意に応じて書きたいモノを書けば、創作(表現)はそれでイイのだ。双方が違った方向に進んでも、添いあっても、それはそれで、いっこうに構わない。矛盾というものを「あれも、これも」として捉えて進むのは、私の表現営為の最高綱領だから。
現実という概念(category)は、必ず「誰々にとって」という条件なり前提を含む。さらにもう一つ、それが先験的であるのか、結果的事象であるのかという二つのcategoryを持つ。後者の場合の現実は「誰にとっても」ということともいえる。たとえば、今日の天気がある地域で雨なら、その地域のひとの空模様の現実は、誰にとっても、みな雨だということだ。東日本大震災は、地震と津波によって多くの犠牲者が出たが(原発事故はあくまで二次災害であって地震災害ではナイ。防ぐことは出来たからだ)、地震も津波も、自然現象だから、それ自体には善悪も摂理も罪もナイ。宗教的諸派の解釈(ローマ法王は、少女の質問に対して、私にも何故そういうことを神がなさるのかワカリマセン。いずれワカルときがくると思いますが、と正直に答えている)を聞き流しておけば、プレートのエネルギーによる地殻変動に過ぎない。人命を奪うことを目的として起こったものではナイ。これが先験的な現実だ。しかし、親を奪われ、子供を奪われ、家族を奪われ、愛するひとを奪われ、住む家も土地も奪われ、職場さへも奪われ、呆然と佇むしかナイというのは、結果的事象を目の当たりにした現実だ。
次に、何れの現実にせよ、「現実というものはメタファー(比喩・譬・metaphor)でもフィクション(虚構・fiction)でもナイ」ということを忘れぬことだ。東日本大震災が何かのメタファー(たとえば「国難」とか「天罰」とかいう言辞はその類だ)で起こったものではナイのは明白なことだ。演劇という表現もこの現実から始まるのだということを了解していないと、演劇の非日常性や虚構性やそのメタファーを勘違いしてしまうことになる。勘違いというのはどういうことかというと、演劇が非日常や虚構や、ある種のメタファーから生まれた(表出された)表現だと思ってしまうことだ。これは、演劇が原初に持つ祭儀制から観据えると、その通りなのではないかと安易に納得、了解、スルーして考えてしまうところだが(事実、私もそのあたりでかなりの脳髄の混乱錯綜と闘ったのだが)、そこがもっとも「現実と虚構」についての考察において、重要な主題になる地点であることだけは確かなのだ。この錯誤は、いまの若いひと、特に劇作家や演出家に多くみられるマチガイでもあるように感ずることがよくある。いま、たとえてこれだけいっておけば、「無意識」というのは「意識」があるゆえに生ずるものだし(ユング派の考え方はチガウが)、不条理劇というものは、条理があるから書く(演ずる)ことの可能な戯曲(演劇)だ。
誰のコトバであったか、現在における最も現実的(real)な出来事は恋愛だ、というのがあった。恋愛は創作の上ではromanceだ。しかし、現実に生きている対の当人たちにとっては最もrealityのある事象に違いない。(この謂いを使えば、演劇というのは、realityを用いてromanceを創る営為だ)。これをふつうひとは、自身の恋愛から学ぶはずだ。どのように、如何様に、現実をメタファーで修飾しようと、それは覚めれば消えるただの夢でしかナイ。メタファーでしか現実を観られない罪がそこにある。

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