死が多すぎる
新作の二人芝居『DOWMA』を昨夜書き上げて、まず、演出家に送信。今日、午前中、さらに改稿して、文章を話文体に出来るだけなおしたものを、完成稿として送信。午後からは、名古屋に持っていく書籍と、置いていく書籍を分けて、整頓、一汗かいた。本棚二つ分で済んだ。名古屋~実家は、思ったより早い時間で移動出来るので、慣れれば近距離電車に乗っているような感じだ。必要があれば、すぐに取りにこれる。
「171」は、地震後十日ほどしてからやってみたが、数日しても応答がナイ。陸前高田は壊滅状態というから、ダメかも知れナイ。新聞の死亡記事に同じ苗字をみつけると、胸にズキンと来る。お父上のほうの名前はワカッテいるのだが、母上のほうはワカラナイ。そのあたりの年齢の方の、同じ苗字の死亡が出ていると、尚更、心臓に悪い。いまは「171」を押す勇気がナイ。ニュースをみても、身近にも「死」が多すぎる。新聞やテレビは、復旧の捗りを伝えているが、こっちは、阪神淡路を間接的にも経験しているので、すぐには信じがたい。天皇皇后両陛下は、各地の避難所に励ましの訪問をなさっているが、被災者にとっては、どんな神仏よりも、力強いだろうと思う。
また、夜が来て、朝になる。そうしてまた夜が来る。精神的な視野狭窄で、どうでもイイことは、ほんとうにどうでもよくなり、他人からみれば、私はただの他人でしかナイのだなと、孤独とはまた違う、自己逃避のようなものがやってくる。けっきょくは、おいらの罪だ。加害者意識に責められているワケではナイのだが、良かれと思っての営為が、みな無駄な(だけではなく、迷惑千万な)徒労に終わっているようで、一瞬、すべて投げ出したくなる誘惑にかられる。そうはならぬように、生き恥覚悟で生きてるつもりなのだが。
« 原発と節電 | トップページ | ゆっくり考えるのが正しいとは限らない »
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- nostalgic narrative 33(2024.09.20)
- nostalgic narrative 27(2024.06.19)
- nostalgic narrative 26 (2024.06.09)
- nostalgic narrative 21(2024.05.12)
- nostalgic narrative 18(2024.04.11)