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2011年4月 1日 (金)

臥薪嘗胆、捲土重来、被災地の観客

演劇に何が出来るかという問いを、もう少し具象してみると、こういう問いかけになる。「被災者に対して、演劇に出来ることとは何か」ここでは、昨日書いたように「痛裂な観客論」ということになる。いま、被災地の復旧、復興のならぬ期間(何カ月かかるのかはもちろん不明だ)、私の出演する二人芝居(流山児事務所公演・『夢謡話浮世根問』)も、仙台、盛岡公演を5月下旬のツア-に予定されており、仙台の待ち受け小劇場のほうでは、上演を成立させんがために奮闘されていて、流山児事務所側も、予定通り、これを行うと当方に告知があった。ところで私はこれを断り、参加しない旨を伝えた。つまり事実上「やめたほうがイイ」と返答したワケだ。待ち受け側では、まだライフラインが復旧しておらず、小屋も完全に復旧していないので、別の小屋を打診しているとのことだったが、そのような空き小屋があるのなら、被災民の方たちのために使ったほうがイイ。待ち受け側の奮闘ぶりはワカルが、それはともかくも、現実の「地震災害」からの一時的な回避だと私は考える。直截被害を受けなかった私たちは、原発を除いて、地震はもう終わったように錯覚してしまっているが、避難民の多くの方々に、「地震災害」がのしかかってくるのは、ほんとうは、これからだ。ヒトは、あまりの大きな災害に出会うと、ある期間はそれを現実として受け入れナイように脳が働く。ましてや、情報の遮断された現在、おそらく避難民の方々の多くは、災害自体の大きさすら知らないと、推測出来る。そうして、それがわかり始めると、心的外傷後ストレス障害(PTSD)という、阪神淡路でもみられた、喪失感、絶望感、が襲ってくる。これにいたるのには、数カ月。いまだ被災者の方々は、毎日の衣食住で精一杯なのだ。
もし、その被災地で、演劇公演があったとしよう。やって来る観客は、どのような観客だろうか。難を逃がれた、「芝居を観る余裕のある観客」だ。宮城県だけでも、避難民73300人、この避難民の中から、誰がナニを観に来るというのだ。
さらにいえば、もし公演を行ったとしても、我々は帰ればイイだけだ。「マツリのアトの寂寞」を、如何にして現地待ち受けの方々は耐えるのか。「自分たちは、震災直後に演劇公演をやったぞ」などというのは、何の勲章にもならない。ほんの数日の励みにはなるかも知れないが、逆に「自分たちは、ナニをやったのか」という、気を張ったアトの、自責自問に追い詰めれるかもわからない。重ねていうが、「演劇」にやれることがあるのなら、大袈裟にいって、その使命があるのならば、現地のヒトが、海岸に流れついた無残、悲惨なランドセルの傍らから、ボ-ルを拾って投げることを始めてからだ。その公演の日が一日も早く来ることを祈りながら、待ち受けの人々のところには、芝居をしにいくのではなく、公演日を、小劇場(小屋)の復旧作業協力のために出かけるべきだ。そこでは、作業のアト、いろいろな芝居の話も出来るじゃないか。それに勝る「演劇の役立てかた」はナイ。

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