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2011年3月24日 (木)

自作解題『寿歌』・1

『寿歌』が書かれたのは、1979年(昭和54年)の春である。この年、私は27歳。1977年(昭和52年)の暮れあたりから、体調に異変を感じ、次の一年は寝ても起きても具合が悪く、医者や病院に行っては「何処にも異常はない」と診断されるだけで、たぶん難病だろうと諦念して、さまざまな人々宛に遺書などを書き、それでも、劇団への戯曲執筆を滞らせることが出来ないので、実家にもどって、ボ-ルペン原紙に直筆で原稿を書いた。近所のあばら家の梅の木に蜜蜂が飛び交っていたのを記憶しているので、春だったと思う。書くとはいえ、10分ばかり書いては、横になり、また起きては書くというありさまだった。微熱があったのか、私は自分を心地よく冷やしてくれる雪が欲しくて、ラストシ-ンを雪にした。書いているさなかも、自分がいったいナニを書いているのかヨクワカラズ、とりあえずこれは女優の稽古用台本ということにしておこうと決めて、四組のキャストで上演してみた。
上演はしてみたが、何の話なのか私にもワカラズ、意に反してこれが岸田戯曲賞の候補となって、世間に注目されるようになってしまうのだが、当時は、リアリズム演劇の諸派からは、こんなものは演劇ではナイといわれ、反核派からは、反核演劇扱いされ、ある批評家からは、文章が安っぽいと貶されて、当人は、窮していたのだが、意地でも、これが何の話なのかワカルまで上演しようと、15年ばかりやって、要するに実に単純な話であると了解、理解、納得、出来た。
『寿歌』は、私自身の人生の予言のようなもので、登場人物のキャラクタ-をいってしまえば、ヤスオ(ヤソ)は役立たずの神そのものであり、世界が滅んでから、のこのこと出てくるのだ。とはいえ、そんなヤスオ(神)に、無垢で白痴な魂のキョウコは恋をしてしまうのである。それを知ってか知らずか、ヤスオ(神)はさっさと何処やらかに行ってしまうのだが、ゲサク(これが私の分身らしいのだが)信仰を持つことも出来ず、ただ、芸を売って廃墟をさすらう運命(さだめ)の芸人で、せめてキョウコにはと、ヤスオのアトを追わせるのだが、キョウコは帰ってきてしまう。ゲサクが生き返るのは、復活でもナンデもなく、死んでみせるのも芸のうちということなのだ。そこで、ゲサクはキョウコとともに「ただ、いくしかない」荒野を行くのだが、つまり、なんのことはナイ、観てのとおりのお話である。私の人生そのものを私は、27歳のときにすでに予言して、それを書いたので、何の話なのかワカラナカッタのも無理はナイ。そうして15年して、自らの人生に気づいて、ああ、そうだったのかと、この作品と私自身との関係を了解しえたという、ごくろうさん、の、おつかれさまなのだ。蛍と櫛と雪、このメタファ-がナンであるのかは、また次回。

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