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2011年3月30日 (水)

『寿歌』自作解題・3

一昨日、とある旧知の記者からインタビュ-を受けたが、その記者から得た情報によると、トヨタの社員が、被災地入りしたらしく、そのとき、避難所の人々に「愛知はどれくらいの被害か」と訊ねられたらしい。つまり、あらゆる情報が遮断されているので、被災者の中には、日本全土が壊滅状態にあると思っているひとが多いらしいとのことだ。毎日、テレビで被災地、避難所を眺めている私たちからは、想像も出来ない。それは余談として、インタビュ-の中で、私はなんとなく、『寿歌』で私が書いた情況と、現代の情況というのが、重なってきているんじゃないかなあ、と答えた。それはこの度の地震のことをいっているのでは、もちろんナイ。『寿歌』の、あの、寒々とした荒涼の地平線、コンピュ-タが「おかしなって」飛ばしているミサイル。「まんで花火や」と、キョウコは、その爆発を観ていうのだ。それらは、劇におけるメタファ-には違いないのだが、また、fictionではあるのだが、かなり明確に「現実(reality)」を通して視線が観たもののように思える。・・・『寿歌』の上演が、ある劇団とカンパニ-で予定されている。「なんの話かワカラナカッタ」話である『寿歌』は、いま、現在において、「やっとワカル」話となって読まれはじめているのではないのか。それは核戦争後の話でもなく、この現在をお伽話にした、そのような物語なのではないか。ああ、そうなのだな、お伽話のように読めばいいのだな、と、私自身がそう思う。チェスタ-トンは、お伽話は、教訓に満ちていて、聖書の矛盾(なんだかワカラヌところ)は、現実においても、何だかワカラヌ矛盾として対応していると、『正統とは何か』で述べている。キョウコはヤスオから赤い櫛をもらうが、それをどう解釈しようと、ともかくは、キョウコがヤスオから赤い櫛をもらった、という事象以外のナニものでもナイ。その現実において観客が受け取るインスパイアは、そのrealityの持つVektorそのものなのだとしかいいようがナイ。つまりこういうことだ。街角で、青年が少女に赤い櫛を手渡している光景を、私たちが目撃したとする。それは、現実そのものだが、日常的な風景といえるのかどうか、奇妙な表出を強いる。で、そこから生ずる想像力こそが、私たちのfictionであり、イリュ-ジョンなのだ。最初にfictionやメタファ-などが現実にあるワケがナイ。もし、そんなふうにしか現実が読めない、観られナイのだとしたら、その表現者は、何処かで、心的な表出を逆立させていることになる。夏目漱石(正岡子規が添削)の「菫ほど小さき人に生まれたし」という、愛しい、優れた句も、菫が現実に咲いていなければ、詠めないものだ。たぶん、私は、あの当時、何かを対象に(何かを観て・・・おそらく私自身の観念であろうけれど)私自身をポンと投げ入れたに違いない。

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