『寿歌』自作解題・2
いま、何故『寿歌』の解題などやっているのか。・・・阪神淡路震災のアト、そういわれるだろうなとは覚悟していたが、このロケ-ション(もちろん、震災地だ)は『寿歌』を上演するには、最適だということを、何人ものひとにいわれた。そういったひとに悪気があったワケではナイ。何かしら「演劇」の力を信じていて、『寿歌』の上演が、被災地への励ましになると、みなさん、そう思っていただけだ。私はそれはチガウと考えていた。現在進行形の東日本関東大震災は、私は実際に体験したことはナイが、戦中戦後と同様と了解出来る。阪神淡路のときにも書いたが、「焼け跡から焦げたボ-ルを拾って、キャッチボ-ルを始めるところからしか、演劇も始まらない」と私は思う。
天の救いも仏の慈悲もアテにはならぬ。もし、それがあるのならば、ひとのココロの中にある、それをしかアテには出来ぬ。
ゲサクとキョウコは、戯作と虚構からのもじりでのネ-ミングだ。キョウコのキャラは、安吾の『白痴』の影響だ。ゲサクは、キリスト教の愛も受け入れられないし、かといって何かを愛すべきキャラでもナイ。私は「愛」というモノがワカラナイが、それは、単に自分のことが好きだからにしか過ぎぬ。自分しか愛せぬから、ひとを愛せないだけだ。ただしそれはNarcisseとはチガウ。自分で自分を愛するのではナイ。ひとに愛して欲しいというだけ、それだけしか、自分を動かす力がナイのだ。「愛されるひとにはなりたい」が、「愛するひと」になる能力がナイのだ。この欠落を私は恨みはシナイ。双方ともに持つのは難しいのではナイかと思うからだ。そのせりふをゲサクはこのようにいう。「何処へいっても何処でもナイし、あっちはどっちや」。文脈に添って意訳してみる。「愛そうと思っても愛せないし、あの愛はどの愛だ」・・・宗教者が役立たずであることは、カミュの『ペスト』でもう描かれている。しかし、同書で表されたように、私たちはいま勝ち目のナイ戦争をしているのではナイ。なんとしても、負けぬように闘っているのだ。ゲサクとキョウコのリアカ-が、モヘンジョ・ダロ(死の丘)に向かうのは、文明の滅んだ都市へでも、芸人は向かっていくのだという、粛々とした覚悟にみえるかもしれないが、ほんとうは、そんなに気負ったものではナイ。ひとつそこで芸でもみせて、錢稼いでという、あらエッサッサの芸人根性であり、キョウコは、そこでホタルの子供を産むとまで妄想しているのだ。蛍のメタファ-は、鎮まらぬ魂や怨恨や、微かに灯る冷たい生命のエネルギ-なのだろう。
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