独居清濁
名古屋での独居生活は、退屈しなかったと先日書いたが、たぶん、そういう生活styleが私にはイチバン適しているのだろう。たまになら、ひとに会うのも悪くはナイが、多くのひとはダメだな。滞在中に、気軽にトークショーを引き受けて、企画してくださった方にえらく迷惑やら心配やらをかけてしまって、ほんとうに悪いことをした。・・・読書はいつものように、複数の本を読んでいた。たとえば、『異端の数ゼロ』(チャールズ・サイフェ、林大[訳]・ハヤカワ・ノンフィクション文庫)『はじめての現代数学』(瀬山士郎・出版同)を同時進行させて読んでいって、前者はかなり面白かったが、後者はまったく遠山啓先生の足下にも及ばない駄本で、数学にはこの手合いの入門書が多いのだが(つまり[はじめての]とか、[ゼロからの]とか、文科系のためのとか)、せめて数学ⅡBまで(を高校で習っているので)をやってる程度の者を相手にご教授して頂きたいものだ。で、後者は名古屋に立ち寄ったときに古書店に売った。前者はいわゆる「0(ゼロ)」の歴史である。哲学、神学、物理学と、数学だけでなく、多角的にゼロの驚異を解いていく。ちょっとしたミステリだ。そのせいか、ある晩、台所で稽古アトのビールを飲みつつ、小人の私は独居して、妙なことを考えた。(これはもう一冊、雑誌『newton』、特集が「ニュートンの大発明・微分と積分」を同時に読んでいたせいでもあるが)ダイニング・テーブルにビリヤードの玉があるとする。ニュートン力学では、この玉は、外から何らかの力が関与しない限り静止している。(つまり、まあ、これがゼロね)と、いうことは、この玉を動かすには、ナインボールで白玉をぶつけるように、たとえば指でつつくとか、何らかの外的な力を加えなければならない。それが白玉だとすると、その白玉を動かしたナニかの力が存在したことになる。その前のまた前と、これは、キリがナイ。つまり初期作動は何であったかという問いかけになるのだが、けっきょく、答はナイのだ。要するにゼロが動かない限りは、何も動かない。よって、この宇宙の最初はゼロであったとするしかナイ。そうすると、初期作動は、この宇宙ではナイところからもたらされたとしかいいようがナイ。しかし、それでも答にはならない。どこからもたらされようが、最初に何か力が働かねばならない。私はほんの一瞬、神の存在を思った。とくに無神論者でも信仰のあるものでもナイが、これまた同時に読んだアリストテレスの「神の存在証明」の論理が(ここではそれを純粋理性と称している。よって、カントが記した『純粋理性批判』とは、このことをいう)、整然とみごとだったので、果たして並の無神論者には、これを論破するのは難儀だろうなと、畏れ入った。サルトルが実存というのも、プラトンがイデアや、アリストテレスが素材(ヒュレー)というのも、さほど差のあるものではナイ。こういう哲学・神学を、量子力学から逆視していく作業もまた愉快なのだ。どちらも[自然]というものを扱っているからだ。そういうことを独りやっているときは、まったく退屈はしない。
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