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2011年2月26日 (土)

物語

「演じられた劇」、つまり舞台において、演者(登場人物)が[物語]を[語る]場合、小説などにおける登場人物の語りとの差異は何だろうか。小説(文学)はもともと語られるものが文字になって記述されているのだから、語るもの(小説・文学)の中に語る者が登場するのは、meta表現になっている。かんたんにいうと、昔話などで、いきなりその話が展開するものと、昔話を語る語り手(たとえば、囲炉裏ばたのお爺さん)が登場して「それじゃあ、今晩の話はなぁ」と話し始めるのでは、少しニュアンスが違う。演劇(舞台・戯曲)でもこの手法は用いられる。演劇の場合は、語られるその物語がさらに演じられるということも多々ある。小説(文学)は書かれた(文字が記述された)表現だから、読者は想像力(創[像]力)によって、像(image)を脳裏に思い浮かべながら、物語に入っていくしかナイ。このときの像(image)はedgeが必ずしも鮮明ではナイので、それが絵・画になったマンガのほうが多く読まれ、また、それにともなって、マンガのレベルは、小説(文学)を凌駕しているのが現状だ。ところで、「書かれた劇」としての戯曲表現は、ここでは置くとして、「演じられた劇」においては、語り手のedgeは少なくとも鮮明であり、記述された文章は、音声となって、これも鮮明となる。ただ、そのぶん反比例して、読者が戯曲を読むときのような想像力(創像力)は奪われる。ここまではあくまで前提のようなものだ。・・・物語の登場人物が物語を語るというのは、どういうことなのだろうか。とくに黙って通りすぎればいいようなものだが、スロフトの第2回作品『この夜の果てへ~二人だけのドグラマグラ』では、戯曲の上で、やや意識的にそういうことに拘ってみた。いまんところ、そんだけのことなのだが、戯曲という記述された文字の表現と、散文のそれとの、何か差異が新しく発見できるかも知れない。などと、まあ、寝惚けている。

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