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2011年2月27日 (日)

小人半知

ところで、演劇において「動く」「動かない」ということについて、今度は考えてみる。私の考えるかぎり、演技において「動く」ということには「何の意味もナイ」。意味があるのは、動くこと(動き)によって生ずる[作用]のほうだ。つまり、演者の状態(止まっている・動いている)が意味を持つのではなく、その[作用]が意味を持つのだ。このことはたぶん、多くの演者や演出家に誤解されているところだ。演者が「動かない」状態において、もし、それが何らかの「作用」を及ぼすものであれば、それは演技であり、ときには、動くことより重要にもなる。昨日考えたビリヤードから始まる初期作動は、まったく時間も空間もナイ、ゼロにいきついたが、演劇の場合は舞台という時間も空間も存在する。従って、演者がただじっと立ったまま動かないでいる場合でも、それによる作用が生ずる限り、この演者の存在はゼロではナイ。つまりpotential(位置)のエネルギーを空間的、時間的に所有しており、相対論として考えれば、動いているといっても支障はナイ。つまり、その演者は止まっているようにみえるが、彼(彼女)を有する世界が運動していれば、相対的に動いていて、みかけの初期作動は、この演者に対しては別の作用(他の演者)によって与えられることになる。また、この者が、他の演者に対しての初期作動になることも有り得る。そこで、動かないでいる演者を想定して、その向きを次に考えると、状態ベクトルという視点がみえてくる。ベクトルの力は「向き」だから、その演者はたとえ動かなくとも、向きという力(状態ベクトル)によって、作用を舞台世界に及ぼす。たとえば、平田オリザ氏の演出において、演者がけして客席に向かって語らないというのは、舞台と客席に、ある遮蔽を創るように思えるが、けっきょくそれは、テレビドラマと大差ナイのではないかと、私には思える。何故なら、演者は前向きになりながら、状態ベクトルを後方に向けて語ることも出来るからだ。かの、現代漫才の祖、エンタツ・アチャコ両氏には、楽屋から、アト数分舞台をのばしてくれ、との要請に、二人とも後方の壁まで下がって後ろを向き、立ち小便のしぐさをして、世間話をしながら、間をつないだ、というepisodeがある。これは、テレビの生放送においても、ディレクターから、もう1、2分時間かせぎを、という指令が出たとき、「ほな、立ち小便でも」と、同様のことをおやりになったらしい。

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