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2011年2月

2011年2月28日 (月)

小人半解

本日は、塾ということで、でかけるのですが、税務署に用事があるので、電話。ずっと話し中、まあ、この時期ですからね。で、もう一つ、名古屋独居中に考えたこと、昨日のつづきみたいなもんなんですが、書いておきますと、・・・たとえば、πは半径1の円の面積ですから、無限ということは有り得ない。何故なら、円という事象によって、外部と隔てられているので、有限です。いくら積分していっても現在はまだケリがついていませんが、ケリはつくでしょう。たぶん、ケリがつくという前提で計算をやってるんだと思いますから。で、π=3,14・・・なんですが、数え初めは、3です。これと同じように無限を数えるとします。そうすると、無限の先はワカラナイにしても、どこから数えるかということは決めておかねばなりません。自然数、整数(ゼロが登場)、有理数(分数、負の数)、実数(無理数が含まれる)、複素数(虚数の導入)も数え初めの数は決まっているとすると、どんな無限にも、ハジマリが存在することになります。オワリはワカラナイが、ハジマリは存在する。でも、仮にそのオワリから数え始めるとしたら、ハジマリの数がオワリの数になる。つまり、この世界には、オワリは無くても、始まり(初め)がなくてはならない。、おっと、電話が通じました。では、また3月下旬にお会いいたしましょう。

2011年2月27日 (日)

またまた開店休業をしばし

3月1日からは、流山児との二人芝居の短い稽古と、長い本番のため、このブログもお休みでございます。悪しからず、100人~150人の賢明なる読者、諸兄。

小人半知

ところで、演劇において「動く」「動かない」ということについて、今度は考えてみる。私の考えるかぎり、演技において「動く」ということには「何の意味もナイ」。意味があるのは、動くこと(動き)によって生ずる[作用]のほうだ。つまり、演者の状態(止まっている・動いている)が意味を持つのではなく、その[作用]が意味を持つのだ。このことはたぶん、多くの演者や演出家に誤解されているところだ。演者が「動かない」状態において、もし、それが何らかの「作用」を及ぼすものであれば、それは演技であり、ときには、動くことより重要にもなる。昨日考えたビリヤードから始まる初期作動は、まったく時間も空間もナイ、ゼロにいきついたが、演劇の場合は舞台という時間も空間も存在する。従って、演者がただじっと立ったまま動かないでいる場合でも、それによる作用が生ずる限り、この演者の存在はゼロではナイ。つまりpotential(位置)のエネルギーを空間的、時間的に所有しており、相対論として考えれば、動いているといっても支障はナイ。つまり、その演者は止まっているようにみえるが、彼(彼女)を有する世界が運動していれば、相対的に動いていて、みかけの初期作動は、この演者に対しては別の作用(他の演者)によって与えられることになる。また、この者が、他の演者に対しての初期作動になることも有り得る。そこで、動かないでいる演者を想定して、その向きを次に考えると、状態ベクトルという視点がみえてくる。ベクトルの力は「向き」だから、その演者はたとえ動かなくとも、向きという力(状態ベクトル)によって、作用を舞台世界に及ぼす。たとえば、平田オリザ氏の演出において、演者がけして客席に向かって語らないというのは、舞台と客席に、ある遮蔽を創るように思えるが、けっきょくそれは、テレビドラマと大差ナイのではないかと、私には思える。何故なら、演者は前向きになりながら、状態ベクトルを後方に向けて語ることも出来るからだ。かの、現代漫才の祖、エンタツ・アチャコ両氏には、楽屋から、アト数分舞台をのばしてくれ、との要請に、二人とも後方の壁まで下がって後ろを向き、立ち小便のしぐさをして、世間話をしながら、間をつないだ、というepisodeがある。これは、テレビの生放送においても、ディレクターから、もう1、2分時間かせぎを、という指令が出たとき、「ほな、立ち小便でも」と、同様のことをおやりになったらしい。

2011年2月26日 (土)

独居清濁

名古屋での独居生活は、退屈しなかったと先日書いたが、たぶん、そういう生活styleが私にはイチバン適しているのだろう。たまになら、ひとに会うのも悪くはナイが、多くのひとはダメだな。滞在中に、気軽にトークショーを引き受けて、企画してくださった方にえらく迷惑やら心配やらをかけてしまって、ほんとうに悪いことをした。・・・読書はいつものように、複数の本を読んでいた。たとえば、『異端の数ゼロ』(チャールズ・サイフェ、林大[訳]・ハヤカワ・ノンフィクション文庫)『はじめての現代数学』(瀬山士郎・出版同)を同時進行させて読んでいって、前者はかなり面白かったが、後者はまったく遠山啓先生の足下にも及ばない駄本で、数学にはこの手合いの入門書が多いのだが(つまり[はじめての]とか、[ゼロからの]とか、文科系のためのとか)、せめて数学ⅡBまで(を高校で習っているので)をやってる程度の者を相手にご教授して頂きたいものだ。で、後者は名古屋に立ち寄ったときに古書店に売った。前者はいわゆる「0(ゼロ)」の歴史である。哲学、神学、物理学と、数学だけでなく、多角的にゼロの驚異を解いていく。ちょっとしたミステリだ。そのせいか、ある晩、台所で稽古アトのビールを飲みつつ、小人の私は独居して、妙なことを考えた。(これはもう一冊、雑誌『newton』、特集が「ニュートンの大発明・微分と積分」を同時に読んでいたせいでもあるが)ダイニング・テーブルにビリヤードの玉があるとする。ニュートン力学では、この玉は、外から何らかの力が関与しない限り静止している。(つまり、まあ、これがゼロね)と、いうことは、この玉を動かすには、ナインボールで白玉をぶつけるように、たとえば指でつつくとか、何らかの外的な力を加えなければならない。それが白玉だとすると、その白玉を動かしたナニかの力が存在したことになる。その前のまた前と、これは、キリがナイ。つまり初期作動は何であったかという問いかけになるのだが、けっきょく、答はナイのだ。要するにゼロが動かない限りは、何も動かない。よって、この宇宙の最初はゼロであったとするしかナイ。そうすると、初期作動は、この宇宙ではナイところからもたらされたとしかいいようがナイ。しかし、それでも答にはならない。どこからもたらされようが、最初に何か力が働かねばならない。私はほんの一瞬、神の存在を思った。とくに無神論者でも信仰のあるものでもナイが、これまた同時に読んだアリストテレスの「神の存在証明」の論理が(ここではそれを純粋理性と称している。よって、カントが記した『純粋理性批判』とは、このことをいう)、整然とみごとだったので、果たして並の無神論者には、これを論破するのは難儀だろうなと、畏れ入った。サルトルが実存というのも、プラトンがイデアや、アリストテレスが素材(ヒュレー)というのも、さほど差のあるものではナイ。こういう哲学・神学を、量子力学から逆視していく作業もまた愉快なのだ。どちらも[自然]というものを扱っているからだ。そういうことを独りやっているときは、まったく退屈はしない。

物語

「演じられた劇」、つまり舞台において、演者(登場人物)が[物語]を[語る]場合、小説などにおける登場人物の語りとの差異は何だろうか。小説(文学)はもともと語られるものが文字になって記述されているのだから、語るもの(小説・文学)の中に語る者が登場するのは、meta表現になっている。かんたんにいうと、昔話などで、いきなりその話が展開するものと、昔話を語る語り手(たとえば、囲炉裏ばたのお爺さん)が登場して「それじゃあ、今晩の話はなぁ」と話し始めるのでは、少しニュアンスが違う。演劇(舞台・戯曲)でもこの手法は用いられる。演劇の場合は、語られるその物語がさらに演じられるということも多々ある。小説(文学)は書かれた(文字が記述された)表現だから、読者は想像力(創[像]力)によって、像(image)を脳裏に思い浮かべながら、物語に入っていくしかナイ。このときの像(image)はedgeが必ずしも鮮明ではナイので、それが絵・画になったマンガのほうが多く読まれ、また、それにともなって、マンガのレベルは、小説(文学)を凌駕しているのが現状だ。ところで、「書かれた劇」としての戯曲表現は、ここでは置くとして、「演じられた劇」においては、語り手のedgeは少なくとも鮮明であり、記述された文章は、音声となって、これも鮮明となる。ただ、そのぶん反比例して、読者が戯曲を読むときのような想像力(創像力)は奪われる。ここまではあくまで前提のようなものだ。・・・物語の登場人物が物語を語るというのは、どういうことなのだろうか。とくに黙って通りすぎればいいようなものだが、スロフトの第2回作品『この夜の果てへ~二人だけのドグラマグラ』では、戯曲の上で、やや意識的にそういうことに拘ってみた。いまんところ、そんだけのことなのだが、戯曲という記述された文字の表現と、散文のそれとの、何か差異が新しく発見できるかも知れない。などと、まあ、寝惚けている。

2011年2月24日 (木)

マスクと読書

二カ月ほどの名古屋マンスリーマンションでの生活は、それほど退屈なものではなかった。夜は稽古だし、帰ってきてからは、風呂に湯が入る1時間20分もの長い時間(なんしろ、古い風呂なもんで、チョロチョロと水道から湯をはって、さらに追い焚きするとそれくらいかかるのだ)や、朝ミスドでコーヒーをやってから、昼に飯、それから夕方に出かけるまで、特に飲む打つ買うの趣味のナイ私は、近所に名古屋ではけっこう名のあるパチンコ店が三店あるに関わらず、横目にはみながらも一度もそのドアをくぐりはしなかったし、歓楽街にあるゆえ、飲み屋も豊富なのだが、外で飲む習慣がナイので、ポツポツと、独り、暗い酒を飲んでいるか、マスクをしながら読書をしていた。これも、近所にけっこういい書店があったので、二日に一度は出かけては、ひさしぶりに最近のミステリを買って読んだり、こういうのも閉じ籠もりというのだろうなと、マスクをしながら(くどく書くが、外に出るときははずすのだ。何故なら、借りてもらった住居は、ハウスダストがひどく、マンションとはいえ、ふつうのアパートの結構で、塗ったばかりらしい壁からの白い粒々が、カウチの前の机に点々と、拭いても拭いても、1時間ほどすると味の素をふりかけたように積もってきて、これはヤバイと、防塵マスクをしながら)本を読んでいたのだ。ミステリのことは、また次の機会に書くが、これはいい買い物をしたと思った書籍は、『東京大学で世界文学を学ぶ』(辻原登・集英社)と『量子の社会哲学』(大澤真幸・講談社)で、両方とも、いろいろと興味深いところが多々あった。前者は、文学知らずの私にとっては、「へーえ、文学というものはオモシロイもんなんだなあ」という感心と、スロフトの第2回公演用の戯曲を書く上でのこの上ないmotivationになった。後者は、その一部をチャッカリ『ゴーシュの夜の夜』の舞台美術の参考にさせて頂いた。前者は殆ど門外漢なので感服しきりであったが、後者は、やはり、量子力学についての誤解がみられた。それ以外というか、援用においてはかなり好奇心をそそられる、冒険的な内容だったのだが、著者は、社会学が専門の方なので、当然といっていいほどの誤解があるのだ。これは、おそらく参考にされた物理学の書籍自体が間違っていたに違いないと思う。具体的にいうと、量子現象における「遅延選択実験」についてなのだが(この著書では「観測」となっているが、正確に物理学的にいうと「測定」)、この量子の遅延的なふるまいについては(波動となってスリットをくぐったとたんに測定すると、また粒子になるというもの)著者が書かれているような「観測者」が関与する余地は一切ナイ。量子力学では、量子の遅延作用についても「完全に記述」する。そもそも、量子力学においては、「観測者」の入り込む部分はまったくナイ。観測者と量子とは何の関係も持たないのだ。従って「観測者がみた瞬間に波は粒子となる」というふうなことは生じない。それが「あたかも観測者を裏切るように」ということもなければ、「まるで量子のほうに[知]があるように」ということもナイ。metaphorとしては、オモシロイが、事実はそうではナイ。しかし、そういう錯誤を差っ引いても、この著作はかなり圧倒されるオモシロさがあった。こういう知識の積分のような本は大好きである。前者においては、現実、metaphor、fictionとはなんであるかということを、突きつけられるように考えさせられた。スロフト第2回作品の『この夜の果てへ~二人だけのドグラマグラ』は、ペーパーワークで、その威勢を借りて書かれたような作品だ。(公演は来年初頭ですが)。防塵マスクのおかげで、ひどくはならなかったが、未だに気管支の具合はよろしくナイ。

2011年2月23日 (水)

右から左

『オダサク、わが友』の新聞社取材に、大阪まで行って来た。夕方に産経新聞、夜、稽古が終わってから朝日新聞である。つまり「右から左」だ。そういや、呉智英センセが、なんかの著作でオモシロイこというてはったな。「学歴偏重主義」を批判している新聞社(まあ、朝日でしょうけど)の社員の学歴をあきらかにせよ、だ。ケッサクでんな。かつて、NHKの仕事で東京まで行ったとき、お茶汲みのお姉ちゃんに「どこの大学出てるんですか」と聞いたら「京大です」といわれたナ。NHKなんかは、東大、京大が群れているからな。で、そいつらが世間知がナイのよね。礼儀も知らない。「○○(呼び捨て)の今度の作品は、まあまあ読めるよ」なんてことをいいあったりしているんだからナ。その辺りから、私は「学歴重視主義」になった。東大とか、京大とか出ている連中には、気をつけねばならない。仕事一つ出来ないくせに、(実際、私に脚本を依頼してきたのに、私の戯曲の一曲どころか、舞台を一度も観たことがナイというのには閉口した)放送とは云々カンヌンと、理屈はいうんだから。何度も書いているが、東大の経済学博士課程を出て、帝京大で、准教授をしている御仁が、マルクスを読んだこともナイというのにも驚いた。理由は、間違っているからだ、というんだけど、読みもしないで、それが、経済学博士のいうコトバか。だから、「使用価値が高いものは交換価値が高くなるのは当たり前じゃないですか」なんてことをメールで書いてきたときは、少しはマルクスも読んだほうがいいよとだけいっておいた。ところが、この御仁が、自著で「価格は市場で決まる」「消費者は欲しいものを買うのではなく安いものを買う」(これ、経済学の新書よ)なんて書いてたのを読んだときには、やはり、学歴は重視せにゃなと思った。東大の経済学科なんかは、疑ってかからねばならない。すぐに数理経済学のゲーム理論が、なんて、現場では屁の突っ張りどころか、いままで一度も役にたたなかった(失敗した例はあるのだが)虚仮威しの理屈をいうんだからナ。使用価値と交換価値はまったく違う。市場で価格が決まるなどというのは、図式的、マスコミ的な誤謬だ。消費者は安いものを買うのではナイ。まあ、なんだ、右を向いても左をみても、私なんかにゃ住みにくい世間だ。老兵は死なず、去り行きもせず、悟りと煩悩のはざまで一休みだ。

五十歩百歩

おこがましいことをいうが(いつもいってんだけど)、18歳の頃、座右の銘のように思い、いまにして、それだけは59年間、あるいは、名古屋での40年間、生きるのにほんとに役立ったというコトバがある。一つは岡倉天心の「目先の銭にこだわると一生食っていけなくなる」で、もう一つは吉本隆明さんの「何で食っても五十歩百歩」だ。「目先の銭」といっても、どのくらいの額なのかは手前かってに決めなければいけないのだが、たしかに、コツコツ儲けようとか、使うことを惜しむとかはしなかった。近江商人の末裔の血のせいか、死に銭は使わないが、やがて活きてくるだろう銭(つまり、現代経済学でいえば投機とか、投資、マルクス経済学でいえば、労働力となるもの)については、ケチケチしなかった。性分なのか、自分のものを買うのはナカナカ出来なかったが、ひとのものを買う(つまりギフトですな)ことは、いくらでも出来て、惜しいとは思わなかった。また、宮沢賢治のように芸術で食ってはイカンなどとも思わなかった(というより、自分の仕事が芸術などと思ったことがなかったので)、きぐるみの人形劇の台本を書くのも、市民(子供)ミュージカルとやらの賃仕事も、自分の劇団にレパートリーを書くのも、格差をつけたことはナイ。いうなれば「すべて売り物」だ。そんなワケだからか、食うのに困ったということはナイ。2度離婚して、大枚はたいて、私財や稼いだ分は殆ど無くなっていったが、それでも何とかしのいでいるのだから、自分でもたいしたもんだと思う。べつに書き仕事の他に副業などあるワケではナイ。・・・さて、最近は年齢からか、こう思うようになった。「どこで死んでも五十歩百歩」。これだけいろいろと心身が壊れてくると、いつ、どこでくたばるか、覚悟だけはしておいたほうがイイと思うようになったのだ。もちろん、なるたけ無理せず、修理しつつ生きてはいるが、若い頃のように「ここで倒れたらどうしよう」などという心配はしなくなった。くたばったら、その時はその時だ。これは覚悟などという奇麗事ではなく、諦めだな。悔いが残るほど人生というものをたいしたものだとは考えていないので、出来たこと出来なかったこと、というふうな確執もたいしてナイのだ。ただ、演劇などというえらく難儀なものを選択せざるを得なかったのは宿命だか、運命だろうが、それもまた、五十歩百歩のうちにしか過ぎないのだろう。

2011年2月22日 (火)

一時的、開店

昨日、名古屋から二カ月ぶりに戻り、さっそく、中日(東京)新聞の連載を書いて(なんしろ、〆切が迫っているので)、メールなどの整理をし、公演中(先週)出演者の小林が「地震雲をみたから地震があるかも」の予想どおり、地震を体感し、支所に市県民税の9期分を払い込みにいき、早めに飲み始めて、夜はしゃぶしゃぶにしてもらい、体力の回復を目指して9時には寝た。ともかくもただ飯はありがたい。名古屋滞在中は、どんどん財布から銭が消えていくのよね。それはともかく、メールの返事も出せなくて、不義理をしたみなさんへ、どうもごめんなさい。ブログにも書きたいことは山ほどあったのだが、忘却してしまったなあ。記憶しているところでは、映画は『SP-革命編』が、前回の『野望編』の10倍は面白かったぞ。2時間8分が、圧倒的だ。ともかくも、国会議事堂が占拠され、衆議院議員が人質の中、たった4人のSPたちが、これを如何にして救出、テロと闘うか。アメリカ映画のようにドンパチやらねえのよ。しかし、クライマックスの格好良さったらナイんだな。半端じゃねえぞ、アクションは。えーと、次は、4年ぶりに劇団青い鳥のお姐さんたちとひまわりホールで会いまして(次の週は、avecビーズの公演だったんですが)みなさん、アラ還で身体の加齢情況はいたしかたナイんですけど、これが、舞台になると、「花」になるんですねえ。世阿弥は正しい。avecビーズのほうも連日満員で(私は客席係してましたから)、評判もよろしかったようです。ラストシーンはサービス(もちろん、私へのサービス。そうなることで、この作品のテーマが完結するように仕込まれてましたからね)。スロフトのほうは、滞在中に2作目をペーパーワークで荒書きしましたから、ほぼ出来ています。ダンスを一曲入れるつもりなので、打ち上げの席で振り付けの平山センセに、ちゃっかりお願いしておきました。あのね、藤圭子の歌で、踊ってもらおうという魂胆なのね。そう、お母さんのほうで。1作目は殺陣が入るんだけど、杉本アクションクラブの杉本センセにお願いしなくちゃいけないんですが、そんときはよろしく(って誰にいってんだか)。さてと、時間があったら、21世紀フォックスの7月新作書き下ろしに手をつけないといけないんですが(頭の中では殆ど出来てるんですけど)、本日は3月の吹田メイシアターの『オダサク、わが友』のブンヤさん取材で、吹田に出向きます。3月頭からは、また東京で、二人芝居のナニでしょ。こないだセリフを暗唱したら、三カ所くらいは躓くんですが、まあなんとか誤魔化せそう。これはステージ数が多いし、5月には、ツァーがあるし、もう、気楽にだらだらやります。avecビーズの母ネズミ役は、6ステージ全部違うネタでやったから、疲れました。じゃ、まあ、本日は肩慣らし程度。

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