かくも長き不在
本日午後からまた名古屋にreturnです。今月は帰郷する日がナイので、このブログはまるっとお休み。メールは読めますが、返事は難しい。名古屋でのマンスリーマンション暮らしでは、ペーパーワークで、原稿を裏紙に書いております。目の疲れが格段に違う。漢字変換以外はとくに支障なく、21世紀フォックスの7月作品と、SLOFTの第2回作品を書いております。で、avecビーズの稽古と、流山児との二人芝居のせりふの確認。中日(東京)新聞2月分は、書くひまがナイので、本年の初仕事として、原稿を提出しました。(編集者からの打ち返しでの第二稿も提出)。私、ずっと前から不思議でならないのは、「保護色」というもの。陸上、海中を問わず、そういう生物がいます。あの、創られ方がワカラナイ。もし、進化の結果であるのなら、保護色を持つ生物は、それが「保護」色であるということを、どこで遺伝子に組み込んだのか。つまり、それが自身を保護する色であるということを、当の生物は知っていなければなりません。さらにそれを操作しなければなりません。そういう複雑なことが、爬虫類、魚類、植物などで起こるワケがナイ。そうすると「自然に」そうなったとしか考えようがナイ。ここに私たちが、思いもよらぬ常識の逸脱があります。量子力学が私たちに教えたことは、帰納すると、ただ一つです。私たちが観ている、認識している、すべての常識は、極めてアヤシイということです。科学は、全宇宙(もちろん人間も含みます)の4%の事象しか解明していません。元日の午後、最寄りの神社で、燃える御神火(去年の御札を燃やしている)をみつめながら、そもそも、この「炎」というのはナンなのか、説明出来ない自分に唖然としてしまいました。燃えているのは木や紙です。煙は二酸化炭素です。では、この炎はナンなのか。熱量には違いないのですが、何故、こういう形態であるのか。アリストテレスが、世界を創る要素の一つに数えたのも無理からぬことのような気がします。・・・家庭も母も、子供も恋も、そういう世間並みの望みはみな棄てました。その代わり、「愛」というものの、糸口はみつけました。愛の対概念は「憎しみ」ではありません。愛の対概念は「生死」です。(もちろん生の対概念が死ではナイように)。もう一つ、現実はmetaphorではありません。現実は現実、metaphorは表現の場のものです。これを錯覚しないこと。無論、コトバというのは、創られたものですから、現実のコトバにも、必ずmetaphorがあります。これを対象化したものが、表現のmetaphorとしてのコトバです。学ぶことは多く、満身創痍ではあれど、やんなきゃならないものは、やんなきゃなりません。人非人でけっこう、悪人、よろしい。・・・最寄りの神社での御神籤は「大吉」でおました。もうちょっと、一所懸命、命使い捨てでございます。
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