realityとはナニカ
とかく時代劇において、それを毛嫌い、あるいは馬鹿にする手合いのいい分は決まっている。曰く「ご都合主義」。主義というほどのものではナイ。正確にいうなら「ご都合作法」だ。つまり、realityに欠けるというのだ。たとえばこういうことだ。主人公の侍が歩いている。と、必ず女人が悪人に襲われているのに出くわして事件が始まる。かの『旗本退屈男』(映画版・市川歌右衛門、主演)などは全30作みなそうだ(と、いってもイイ・・かな)。そんな都合のイイことはナイだろうというのが、時代劇小馬鹿派の苦笑だ。しかし、ミステリはどうだ。必ず、探偵役が事件と遭遇することになっている。そうでナイと文字通り話にならない。これは社会派といわれるミステリでも同じ。戦争ドラマはどうだ。主人公に親しい者(同じ兵士、ここで「戦友」というのはほんとうは意味が違う。戦友は下級兵士からみた上級兵士の尊称だったのだが、のちに、同じ階級の者どうしで使われるようになった)は敵に殺されることになっている。典型的な例をいえば、ラブストーリー(むかしはメロドラマといわれた)のヒーロー、ヒロインは、必ず美男美女だ。『必殺』においても、事件が起こるのは登場人物の周囲に限られており、仕事人の誰かが、頼み人と、何らかの関係を持っているか、持つようになっている。ここでrealityがナイと笑えるか。創作、芸術、表現、というものは「作り話」なのだ。それを肝に銘じておかねばならない。「リアリズム演劇」などというのは、命名からして原則的に矛盾した世迷い言だ。演劇のrealismというのは、たとえば、ガラスのワイングラスを床に落す。ふつうなら必ず破(わ)れる。ところが、演劇では、これが破れないのだ。だから、何故、ワイングラスが床に落ちても破れなかったのかをうまく物語として創り出すことがrealismなのだ。そこを納得、首肯させるのが、「作り話」のほんとうのオモシロさなのだ。
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