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2010年11月

2010年11月30日 (火)

つい、いった。

連日マスコミ報道を賑わせている梨園の暴行事件。『相棒』の右京ならこういうナ。「特徴は二つです。被害者は顔だけを殴打されている。しかも、致命的重症になるほどにです。歌舞伎役者にとって顔は命です。そうして携帯電話を盗まれている。ここから被疑者を絞り込むことは可能です」・・・私ならこういう。「たかが河原乞食が殴られただけじゃナイか。あの程度の役者なんてほんとは腐るほどいるはずだ。あの役者は腐っていたかも知れないが。何が[にらみ]は専売特許だ。ロンパリくらいやれる芸人もまた腐るほどいるぜ」

就職難だそうだ。就職浪人にならぬため就活は大学3年生からだそうで、では、受け入れ側はどうかというと、大手はどんどん人手を切っている。中小企業は人手不足ときている。これは、経済学の問題だろうが、やや「ヤバイ経済学」に属する。両親は子供が大学を卒業するために莫大な銭を投資する。小学校から塾だ。両親にせよ子供にせよ、回収しなければならない。それには中小企業では無理だ。国立大学まで出してやって、社長と社員が3人の会社に就職とは何事か、になる。で、なんとしてでも大手。しかし、いまの趨勢を観るに、大学ではアタリマエのことだが、キチンと学問して、出来れば大学院まで進み、自身の研究の成果を以て、大手に売るほうがいいように思う。ノーベル化学賞は、すぐに銭になる。

イジメの責任を親が学校に訴える。学校側はこれを隠すが、終には謝罪。そんなことなら訴えでた親に学校側はこういってやればイイ。「親という者はイチバン子供に近いところにいるものです。いったい、家庭にいるとき、どういうふうに子供さんとcommunicationをとってらしたんですか」・・・演劇教育(ほんとうは教育演劇なのだが)はこのcommunicationを教えるのだという。演劇表現のコトバはcommunicationを[一部]含んでいるからに過ぎない。教えるなら、death communicationを教えたほうがイイ。

2010年11月29日 (月)

realityとはナニカ

とかく時代劇において、それを毛嫌い、あるいは馬鹿にする手合いのいい分は決まっている。曰く「ご都合主義」。主義というほどのものではナイ。正確にいうなら「ご都合作法」だ。つまり、realityに欠けるというのだ。たとえばこういうことだ。主人公の侍が歩いている。と、必ず女人が悪人に襲われているのに出くわして事件が始まる。かの『旗本退屈男』(映画版・市川歌右衛門、主演)などは全30作みなそうだ(と、いってもイイ・・かな)。そんな都合のイイことはナイだろうというのが、時代劇小馬鹿派の苦笑だ。しかし、ミステリはどうだ。必ず、探偵役が事件と遭遇することになっている。そうでナイと文字通り話にならない。これは社会派といわれるミステリでも同じ。戦争ドラマはどうだ。主人公に親しい者(同じ兵士、ここで「戦友」というのはほんとうは意味が違う。戦友は下級兵士からみた上級兵士の尊称だったのだが、のちに、同じ階級の者どうしで使われるようになった)は敵に殺されることになっている。典型的な例をいえば、ラブストーリー(むかしはメロドラマといわれた)のヒーロー、ヒロインは、必ず美男美女だ。『必殺』においても、事件が起こるのは登場人物の周囲に限られており、仕事人の誰かが、頼み人と、何らかの関係を持っているか、持つようになっている。ここでrealityがナイと笑えるか。創作、芸術、表現、というものは「作り話」なのだ。それを肝に銘じておかねばならない。「リアリズム演劇」などというのは、命名からして原則的に矛盾した世迷い言だ。演劇のrealismというのは、たとえば、ガラスのワイングラスを床に落す。ふつうなら必ず破(わ)れる。ところが、演劇では、これが破れないのだ。だから、何故、ワイングラスが床に落ちても破れなかったのかをうまく物語として創り出すことがrealismなのだ。そこを納得、首肯させるのが、「作り話」のほんとうのオモシロさなのだ。

2010年11月28日 (日)

ひとはパンの耳にあらず

『必殺仕事人』を頭からずっとTUTAYA DISCASの宅配で借りて観ている。故人藤田まことさんの代表作時代劇なのだが、これは『必殺』シリーズの後半期に該る。前期に『必殺』は名作が多いのだが、茶の間に受け入れられるようになって視聴率が安定したのは、このシリーズからだ。『必殺』のレアなファンはなんといっても、『必殺仕置人』と『新・必殺仕置人』、それと『からくり人』『必殺必中仕置屋稼業』を上げるだろう。前作の主役は藤田まこと(中村主水)ではナイ。山崎努(念仏の鉄)だ。『からくり人』は一話完結であるが、全13話を早坂暁が書き下ろして、別の殺し屋組織「曇組」との闘争を描いている。作品に挿入される(おそらく歌詞がつけられる予定であった哀切なmelody)は、私も自分の舞台で使った。また、最終回前の12話は、泣きたいときに観ては泣いている(何度観たことか)。後者は殺しと博打を結びつけたもので、いまではたぶん、製作不可能だ。この中の一話では、まったく殺しのナイものもあり、かなり芸術的、フランス映画に近い創られ方が施されてある。で、『仕事人』は全84話あるもので、初めて三田村邦彦が簪屋の秀で登場する。たぶん、秀が女性と褥をともにする話があるのは、このシリーズだけだ。相手は、吉田日出子さんだ。「ね、私、きれい。女として」火事で孤児となった多くの子供の面倒をみるために、ゆすりを働く髪結いの女役だ。秀は、きれいだよと返事する。辻斬りに腕を斬られ、気を失っているところを、彼女に助けられたのだが、事情を知るまではゆすりのこの女性を軽蔑していたのだ。「じゃあ、抱いて」と女がいう。私は泣く。・・・・一作45分だから、たいてい一日2本観るが、この『仕事人』で鮎川いずみのお加代も元締め(六蔵・木村功)のつなぎとして初登場する。昨日観た一本は、幼い子供が両親を金貸しに殺された恨みをはらしてやるのだが(このあたりも、いまのテレビでは、創れないな。金貸しのスポンサーが多すぎる)、仕事人の一人畷左門(伊吹吾郎)が表の仕事のおでん屋で、自分の娘におでんを食べさせるシーンをお加代がふっと観るカットが入る。母性的なカットだが、ほんの数秒のカットだから、プロットになるとは思わなかった。が、これがプロットとして生きてくる。同じ目で、両親を殺された子供を観るのだ。せりふは一切ナイ。「語り得ぬものには沈黙を」だと、気障なこといってんじゃねえヨ。「沈黙」ほど多く語るものはナイことを、私たち表現者は知っている。この映像、三つのカット。これが、この一話のプロットとテーマをことごとくいい尽くしている。で、私は、また泣く。毎週一本製作に追われての現場だ。ワンカットに時間がとれるワケがナイ。(余談だが、劇場版の『黄金の血』は、撮影がスタートしてもホンが上がらず、助監督ですら、現在、ナニのどのシーンを撮っているのかワカラナカッタそうだ)。断っておくが、幼童期、父親の暴力や母親のleakの虐待にあっても私は一度も涙をみせたことはナイ。それだから「可愛げがない」と、なおさら殴られた。しかし、創作表現の巧みさには惜しみなく泣くのだ。哀しみのナイ表現など、存在する価値はナイ。

北かチョウセン、待ってたドン

新聞やその他のマスコミなどというものは、表しかいわないので、、ほんとうのところは私たち大衆庶民には、ふーん程度にしかワカラナイ。出演しているコメンテーターだってどれだけの資料や取材、エビ゙デンスを持っているのか心許ない。北朝鮮という国は中国にとってはヒジョーに都合のいい国で、別に社会主義国家どうしであるから認知しているワケではナイ。だいたいがどちらももう社会主義国家ではナイのは自明のことだ。そうすると、地勢学的に、北朝鮮というのが、遠く離れたアメリカに対して(そのアメリカの同盟国である日本、韓国、台湾に対して)最も驚異になってくれているのが、中国にとってはありがたいのだ。中国は北はロシアだから北進出来ないので、南進するしかナイ。ここに韓国、日本、台湾という障壁がある。東シナ海の制海権を得れば、日本海も同時に制海権領域に入る。つまり、封鎖出来る。そうしてのち、東南アジアへと太平洋に向けて侵攻出来る。レアアースのことがしきりに報道されているが、世界のベンチャー企業はいまレアアースで一儲けせんとして、あちこちに山師をやっているワケで、その結果、どんどんと新しい鉱脈が発見されている。中国がレアアースの主導権を握っていられるのもここ5~10年だろう。ところで、中国には石油がナイのだ。現在、石油資源を最も多く持っているのがアメリカで、それが世界のどの国であろうと、アメリカは採掘権というものを手中にしている。これは輸送に資金がかかるので、どうしても近海油田ということになっているのだが、こないだの事故だ。とうぶんは要注意だろう。北朝鮮などは中国にとっては、叩き潰すには易いが、飢えず太らせずに飼っておけば、かなりの価値ある手駒なのだ。北朝鮮の核が問題視されているが、もちろん、ミサイル攻撃なんぞは技術的に可能でも、表立ってやれる世界情況ではナイ。アメリカが恐れているのは、この核によるテロ攻撃だ。中国がアメリカとの全面戦争など考えるワケがナイので(アメリカ原潜のポラリス2000発の照準は中国に向けられている)、また、台湾からの非核攻撃でも、中国は叩けるとアメリカは目算している。中国が台湾の軍備に難癖つけるのはそのためだ。アメリカが中国に対して、北朝鮮を宥(なだ)めろといなしているのは、有事(それに準じる軍事)の際に、仲介に入れということに他ならない。日本は核武装すべきだというアホintelligentsiyaもいるが、この阿呆は、政治-戦争という脈絡がまるでワカッテいない。北朝鮮の亡国を望むのであれば、中国の衰退を待つしかナイ。中国の衰退とは、具体的には、民族の独立分国だ。これが中国が最も恐れている内政だからだ。中国4000年(どこから数えているのか知らないが)の歴史は、この国の統一と分散の繰り返しだからだ。王手飛車とり、いま世界のどこの大国が抱えている問題もそのようなところだ。

2010年11月27日 (土)

キシキシと軋む

軋むは(きし)むと読む。念のため。奇しくも(これは(く)しくもと読む。念のため)中島らもと私と岩松了は同い年(タメという)だ。中島らもは躁鬱病で、そのどちらかの状態のとき、仕事場で突然、激しい希死念慮に襲われ、「何故死にたいのか」を必死懸命に考えても答えが出てこず、ともかくは、劇団のわかぎ・Fを呼び出して、救急車を呼んでくれと頼んだそうだ。もちろん、救急車など来てくれやしない。・・・で、私は今朝からその希死念慮のキツイのと闘っているのだが、これは鬱病の(私の)身体症状(もしくは心的状態)の作用であって、説明するのが難しいのだが、たとえば、外出中に激しい下痢の腹痛に襲われたと思ってもらうのが、イチバンわかり易い。冷や汗をかきながら、トイレを捜した経験は、誰にも少なからずあるはずだ。で、神の救いか仏の慈悲か、トイレをみつけて、出すもの出してほほほおおととっと、スル、のだが、希死念慮の場合、そのほほほほほおおととっは、死ぬことを意味している。死ねば、そんな気持ちになれるだろうなという念慮なのだ。そういう念慮で、心身、軋んでいるのだが、これはトイレにいっても治らない。未体験のことではナイので、心身を放り投げておくしかしょうがナイ、自然に消えていくのを待つしかナイ、とはワカッテいるけれど、母親を欺かねばならず、これがさらに酷くなると、布団にうずくまって、呻くワケだけど、それもならず、まあ、生還したら、お慰み。

2010年11月26日 (金)

騙しヒマだし

ゆんべも9時間起きずに寝て、昼寝もして、これも計ったように3時前に起きる。ともかく、脳は休んでいるようだ。(ふつうは、脳の疲れをとるには、一日2時間でもイイらしい。身体の疲れをとるのが4時間かかるらしく、従って、順次に疲れがとれていくということを考えると6時間寝ていれば大丈夫らしい)。とはいえ、ひとの3倍、精神力で生きてる感じなので、それくらい疲労が蓄積すると、眠るのだろう。今夜は粕汁にしてみた。母親はおでんにするつもりだったようで、おでんも煮てしまったが、粕汁も、食材を買い求めておいたので、作ってしまってあった。ほんとうは、酒粕に少量の味噌を入れるのが文字通りミソなのだが、出来上がっていたので、そういうふうに教えておいた。母親は、食って「なるほど、これに味噌が入ってたら、味が出るなあ」と納得していた。味噌は、味噌汁以外にも、適量を隠し味に使えるのだ。おかずを粕汁にしたワケは、むかし、小学生の頃、まだ母親は教員で、晩飯が一汁一菜ならぬ、粕汁だけという日もあった。私は、それがなんとも貧しく感じられて、「今日は汁だけで飯が食えた」と皮肉をいって、ひどく叱られたことがあった。「立派なおかずやないか」と、母親にしてみれば、仕事を終えて帰ってから作れる具の多い粕汁は汁ではなく、おかずだったのである。しかし、私はそれを不服とした。服従しなかった。これは私の反面教師になっている。如何に仕事がタイヘンでも、食べるものに文句をいわれるなら、家族なんぞ、簡単に崩壊すると、いまでも思っている。今夜はその腹いせ、意趣返しをやってみたのだが、母親はもちろん、そんなことは記憶になく、「粕汁だけをおかずに食べるのか」と逆に驚いたふうに問うた。「そうだ」とアタリマエのように返事をした。あんたがむかし、したことをしているのだと、私は面従腹背、家族愛なんぞには何の縁もゆかりもナイ人間だと自覚しながら。「食を征する者は家を征す」というコトバがある。また、ある時、私は仕事仲間の既婚の女性から「お祖母さんがいうの、食べさせるものに手を抜かなければ旦那は必ず帰って来るって」というコトバを聞いたことがある。含蓄のある文言である。

2010年11月25日 (木)

ヘタルタヘル

ゆんべはラジオで11時の時刻お報せを聞いて就寝、今朝8時30分まで一度も起きないで眠った。こんな具合に9時間余眠ったのは10年ぶりくらいかな。それでも、休養とばかりに昼間は赤ワインを一杯やりながら『漫画家残酷物語』(永島慎二)の完全復刻版(とはいえ、元原稿がナイのだろう、コピー印刷だ)を読んで、ああ、そうだなあ、ちょうど14~17歳の頃、永島マンガに出てくる少女(女性)に恋をしたなあ愛したなあと、感慨しきり。これが無意識に眠っているがため、いつも私は恋に失敗し、現実の愛がナンなのか、ワカンねんだなあと、ため息もまたしきり。それからまた3時過ぎまで眠った。しかし、宿痾の鬱病は、眠っても治らない。出来るだけ母親に気づかれないようにして、今夜はたら鍋。母親が相撲中継を観ながらナニかいってるんだが、どうでもイイので、生返事ばかりが出てくる。背骨に鉛が一本くい込んでいて、息苦しいのは、鬱病の身体症状の私の場合の特徴なのだが、へたっても耐へなければしょうがナイ。俳優マツケンの奥さん自殺のニュースを聞いたときも、「鬱病でしょ」とぼそっといったんだが、そのとおりで、イジメとやらの自殺にしても、要するにイジメによってうつ状態となって死ぬワケよ。何故なら鬱病というのは、[積極的に死のう]とすることによって疎外を打ち消そうとする病だからだ。よくいわれる「パニック障害」というのは病名(疾病)ではナイ。あれは状態(症状)のことをいう。疾病(病名)は「心臓神経症」だ。私の経験する限りにおいては、症状である鬱病の疎外とは、自身の[心]と[身体]が環境世界に対して強い異和を強いられ、疲弊の極みに落ち込むことだ。この場合、環境世界は、私の心と身体に対して[消え去る]ことが最も楽だと脅迫する。これが、一つの症状(状態)であって、ふつうの疾病のように「治って生きたい」という状態を心も身体も逸脱する。ただ、「楽になりたい」という漠然とした欲求だけが、心と身体を導いていく。これは「心の風邪」でも「気の持ちよう」でも、まったく、ナイ。いうなれば、自然なprocessのようなものとしてやってくる。だから、私の場合は、不自然な(意識的な)仕事をscheduleしておく。・・・まだ、とば口だから、今度もうまく誤魔化すしかしょうがナイ。

2010年11月24日 (水)

ヤヤヤババ

主筆、どうも、宿痾の鬱病の気配強く、中津川のときは、なんとか乗り切ったのですが、どうも年末に向けては時節も悪いようで、本日は、ずっとpajamas。一日寝てましたが、疲労感取れず、どうも、やな雰囲気。いつもネ、背中の真ん中あたりに鉛の棒が差し込まれる感触から始まるんですが、そんな様子で、うーん、なんとかまた乗り切らねばネ。ともかく、明日も寝てます。

2010年11月23日 (火)

カタカタ

流山児との二人芝居のタイトル、佐藤信さんからの提案で七文字に変更。あまり漢字が多くてもと思っていたのだが、一応、歌舞伎の真似だから奇数のほうがいいかもネと(『暫~しばらく~』なんて一文字のもあるんですけども)読みやすく『夢謡話浮世根問~うたはゆめ うきよのねどい~』にした。・・・ゆんべは『オダサク わが友』の顔合わせ。キャスティング・オーディション。男優はみな決まったが、深津演出、ヒロインの一枝でお悩み。あたしゃ、フランスパンのほうで、いってみたいが。しかし、なんですな、みなさん、漢字が読めないというのは一様なんですけど、最初は軽く相手の出方を伺っていたのが、次第に白熱、火花が飛んでくるほどにtensionが上がってくるのは、役者の業か意気地か。あたしゃ、その読み合わせだけで、目が潤みました。ホンがいいのかネ(自画自賛)。ともかく、女優陣、熱い。やっぱり東京、名古屋、関西となると、役者は関西だなあ。でも、食えないとかで東京行っちゃって、ほんで、役者と結婚したりして、子供産んでしばらく育児。あちゃー、という残念なケースも多い。ところで、話が織田作だから、関西弁を戯曲には用いている。のだが、そうなんだなあ、大阪も地域流入が多いのか、この関西弁(といっても、いろいろなんですけど)のnuance、intonation、accent、がうまく出来ない役者がけっこういる。まあ、ほんとの大阪土人(あのね、土人というのは「その土地に生まれ住むひと、土着民」と、『広辞苑』にも最初に出てきます。いまではかなり誤解というか、このほんとの意味が死語化してますが)というのは、殆ど表には出てこないそうで、これは江戸っ子も同じ。つまり、東京も関西大阪の現代文化は、地方流入者が創ったものです。従って正確な関西弁(船場とか、河内とか)はもう聞けないし、京都弁は関西弁でも、公家コトバが多いのでかなり違う。森繁さんの『夫婦善哉』くらいは観てほしいと、いっておきましたけど。・・・蓄積疲労で、腸の具合があまり良くない。ちょっと、本日からは、take it easyでおます。

2010年11月22日 (月)

東へ西へ

帰宅途中、名古屋に下車して、いつもの整体にいく。初めての手技者だったが、たいへん上手。股関節は若いときから具合が悪く、まともにダンスをやっている(つまり、classicの基礎が3年は出来ているダンサーなど)と一緒に歩くと、「左足、ちょっと引きずってますね」とみ破られてしまう。これが年齢のせいか、最近は痛む。それをcoverしようとして、左の腰が痛む。東京での稽古では腰にsupporterをしながらやってる。これ、100均で買ったが、ちゃんとしていて便利。massageを終わると、「いい筋肉をしてらっしゃいますが、何か運動されていますか」と問われる。特に何もしていないと答えると「そうすると、もって生まれた質財ですね」といわれた。58歳にしてはめずらしく、筋肉は若いのだそうだ。役者を続けてれば良かった。・・・二人芝居は小林七緒の的確な演出で、いちいち納得がいく。つまり、演出がこの芝居をどうみせたいのかが、よくワカルのだ。これは役者にとってはイチバンありがたい。そのとおりにしてればいいのだから。役者がそのとおりに出来ればの話だけど。流山児のほうは、えらく役作りに拘る。理屈で理解していっているのだが、いざ、舞台に立つと、演じているオモシロさが先にたって、理屈がすっ飛ぶ。あれだけ面白がってやれるのもイイけどね。次の稽古は本番直前の3月の数日だから、とりあえず、今回の稽古最終日はギャラリーを入れて通してみる。1時間20分。せりふが落ちるところもあるが、スルー出来るので、まあ、いいんじゃナイですか。今日は、夜は吹田のメイシアターで、『オダサク わが友』の顔合わせ。こないだも、東京稽古の間に、伊丹の塾を挟んでいるから、もう東奔西走。交通費が月に10万円以上になる。私の固定収入は月11万5千円だから、殆ど交通費。いくら必要経費とはいえ、タダ飯でないと苦しいところだが、銭は天下の廻りもの、とは、昔のひとの経済学理論は、よく出来ている。マルクスの剰余価値説も、Proletariatに銭が廻らないのは何故かに答えたにすぎない。なんだか気分的に忙しいので、アイデアのある戯曲や小説をじっくり書いている時がナイ。いま読むべき本、老後(があれば)に読む本。日だまりと座椅子と本があれば、楽園ですね。

2010年11月15日 (月)

開店休業のお報せ

16日からまた開店休業でございます。土曜日にもどります。

2010年11月14日 (日)

満身創痍であるからは

地下鉄都営新宿線の森下、ここにあるbusiness hotel集落の一軒、家族でおやりになってる小さなホテル、流山児との二人芝居の稽古、15年も放っておいたカラダにはキツイのなんのねえ。こういうのを「老骨に鞭打って」というんでしょうか、それとも「満身創痍」ですか。とはいえ、大西一郎くんところのネオ・ジェネレーター・プロジェクトの芝居は観た。下北沢に新しく出来た超小劇場。舞台の真ん中にセメントのでかい角柱があるからなあ、どうしても、客席を二分しなければならない。が、この角柱をこれ以上の活用があるのかという舞台美術への取り入れで、onesituationの、インディージョーンズ香港映画全盛期版。これがもう、オモシロイ。ひさしぶりですよ、目を開いたまま演劇観たのは。いつもは聞いてるだけなんだけど。劇団じゃナイのに、このアンサンブルの良さはどこから来るのか。関西の役者にも負けず劣らずの役者の芝居。戯曲のコネタと演技の小技が効いてんの。徒党だな、やっぱ。演劇なんてのは徒党を組んで悪を成すでナイとやれないヨ。・・・旅籠でね、本多美奈子のセミドキュやってたな。こういうの泣くヨ。泣かせるために創ってあるんだけど、こういうのは乗るんだ。仮退院の日、nurse stationでお礼に歌ったアメージング・グレイス、これに、偶然同じ病院に事故で重体になって入院してきた岩谷時子さんが、歌詞をつけたってんだな。二人は母子同然のつきあいだったんだって。泣きますよ。悔しかったでしょう。再度舞台に立ちたかったでしょう。美奈子ちゃん。あたしゃ、ファンという類じゃないけれど、その悔しさはワカリマス。これまた偶然なんだけど、次のavecビーズのラストシーンのせりふを書き換えたの。で、音楽を指定したんだ。森山良子さんが歌ってるアメージング・グレイスをね。東京に来る前日にね。だから、もう、ユングのシンクロニシティだよね。・・・しかし、老骨、満身創痍は脳が誤作動するほど(一度、立ち位置positionが変わったら、まったく集中力が途絶えて、何度やっても間違える)だからなあ。私ゃ流山児のダンナと違って、analog(音声-耳)でせりふを覚えていない。digital(コトバの羅列-目)で覚えているから、ちょうどロールするように、頭ん中に字が出てくるのを声出して読んでるの。だから心理とか感情とかは逆流すると邪魔なので、そうならないようにしてんの。つまり雰囲気だけを創ってるワケですよ。で、カラダのキツサはですね、私の役は弁護士なんですがネ、そういうカラダの弁護士だってことで了解しちゃうのネ。一日働いてクタクタの弁護士。これも一種のカラダの使い方ですよ。せりふは何カ所か落します。しかし、pointは落してナイから、まあ、どうでもいいようなせりふを落してるだけだから、いいんですよ。ただ、繋がりがネエ。えっ、俺が繋ぐの、たしか、繋ぎのせりふがその前に出てくるんじゃなかったっけ、てな具合。どっちかが繋がりを落すと、相手が苦しい。これが二人芝居かなあ。とはいえ、なんだか自身の演技論を実践してるみたいで、けっこう理屈のほうにも自信持てましたね。これ、収穫。さあ、もうクタクタで、明日は伊丹で塾。悲鳴をあげてるカラダを引きずって、満身創痍。

2010年11月 8日 (月)

またまた開店休業

今週いっぱい東京、名古屋です。開店休業です。今回はほんとに休業。いま流れているのは裕次郎の『錆びたナイフ』~俺もここまで泣きに来た~同じ思いの旅路の果てだ~・・・この映画はリアルタイムで観てます。幼すぎて、何の映画かワカランかったですが、ナイフは確かに出てきましたネ。

ではしばし。

有終の美学

いくら4点リードでも回は3回だ。ロッテがこのまま黙っているハズはナイ。と思っていたら、アッという間に同点、逆転。バレーでも、5点くらいはすぐに追いつかれることがある。野球なんてのは下駄を履くまでワカラナイ。とはいえ、9回裏、アナウンサーが「さあ、アウトあと三つです」と声を大にするところで、和田。抑えの小林の球は高めにきている。こりゃあ、和田にも執念があるだろうし、技術がある。このひとの本領は、大砲ではなく、パッティングの上手さだと思っているのだが、案の定。本人は打った瞬間は入ったと思ったろうが、名古屋ドームはホームランが出にくい。とはいえ三塁打。ブランコは意地をみせて、同点、延長。ここまで観ていて、これでオワリだなと、浅尾くんには申し訳ないが、二階で渋いビールを飲みながら、パソコンで速報だけ出して、裕次郎聞きつつ歌ってた。うん、よくやりました。リーグ優勝だけでも立派。一昨日の引き分けは内容は負け試合。昨日は森野のアクシデントが全て。これでチャンスにラッキーボーイの大前が敬遠で歩かされた。ラッキーはここで終わる。途中代打の中田での長打狙いはちょっとどうかと思うのだが、ジャストミートするバッターが他にいないのだからしょうがナイか。大島でも良かったカナとも、まあ、しょうがナイ。しかし、こういうことをいうとロッテやパ・リーグのファンに激怒されるでしょうが、それに私、中日ファンでもナイんですけど、あれでんな、ロッテの選手は顔が総じて良くない。ダルビッシュでパ・リーグにも人気が出てきたというのもワカリます。たぶん、女性ファンはセの中日に多いんでしょう。とはいえ、アト2勝はキツイ。ここらで幕というのも有終だ。負けたもの滅びたものにはそれなりの美学というのがある。それは、ドラゴンズにもあったと思う。

本日の『夜灯集』(石川美南)

エンジンの冷却のためこの星があるのですよと静かなるこゑ

(石川さま。毎度著作権無視で申し訳ございません。熱きファンのrespectとご容赦)

2010年11月 7日 (日)

stressな一日

昨日はstressをためるだけためた一日になった。うっかり錯覚して、長久手なら近いからと(つまり、自分が名古屋にいるものと錯覚したのよ)流山児んところの芝居を観に行くなんてメールで返事したもんだから、朝っぱらから名古屋へ。とまれ、鹿目の戯曲だから、なんとかなるかもというのが半分、鹿目の戯曲が流山児にワカルわけナイから、またこないだの『お岩・・・』みたいにワケわかんないヨーになるんじゃねえかなが、半分。後者のほうが強かったのだが、予想どおり、後者になってたな。集団としての演劇の疾走という、phraseはワカランでもナイが、つい先日観た極東退屈道場のproduceに比すると、役者の実力がクモドロなのだ。管野スガを分身させるにしても、やっぱ中心に出来る女優をひとり置いて、牽引させないと、ミュージカルはキツイんじゃナイかな。・・・で、急いで帰って、日本シリーズと女子バレー。中国は勝てない相手じゃナイと思うんだが、「中国」というだけで竦んでしまっているんだなあ。野球は12回までは何とか観ていたが、アトは、パソコンの速報だけ点けっぱなしにして、布団の上で思案の夜。毎晩、風呂から上がって寝るまでの二時間近くは、苦いビール飲みつつ、あれこれ考えているか、感情が不安定になって、ここんとこは石原裕次郎ベストアルバム聞きながら泣いていることが多い。べつに悲しくはナイのだが、そういうふうにしてしかstressを外に出せないんだから仕方がナイ。若大将加山雄三の海は夏だが、裕次郎の海は同じ夏でも荒れていて、冬に近い。加山雄三は渚を走るが、裕次郎は夜霧の港に消えてゆく。私の一世代上は裕次郎で、私は加山雄三の世代なのだが、やはり重なり合って、そのどちらも共存、共鳴している。どちらにも共通するのは、「オレだけにはワカル」。これを私は[太宰治シンドローム]と称している。加山雄三は真昼の蒼空、夜は満天の星。雨すら銀色だ。裕次郎の夜空には運命の星が流れ、季節は秋だから枯れ葉が舞うか、やがて雪が降る。加山雄三は上昇していき、滑降するが、裕次郎は下降していって、地獄まですんなり行ってしまう。どっちも好きなんだけどね。

本日の『夜灯集』(石川美南)

  リノリウムの床踏みしめて永遠に喉の枯れない島へいかうか

2010年11月 4日 (木)

下駄の高さ

下駄は履けばイイと思う。ただし、そのぶん、次はその高さからみえたぶん、成長していなければいけないというキビシサはある。林慎一郎・作、演出、極東退屈道場公演・(於ウイングフィールド)『サブウェイ』は、聖書の創世記を地下鉄に走らせて、[現在]を重層的に観ていこうという果敢なる挑戦の演劇で、コンテンポラリー・ダンスの原和代を振り付けに迎えて、役者の演技における身体に、特殊な動きを与えるという、さらに「やってみたいこと」をやっちゃってくれようという下駄を履いたのだ。登場人物の幾人かは、ゼッケンに役名や、職名、意味だけ、などの記号を貼り付けて、さらに、スライドで、書き文字による解説を入れるという手のこみようなのだが、これをみて、従来の記号論のSPECなのか、それを揶揄したものなのか、あるいはその先に何かをみいだすものなのか、ここは賛否が分かれるというより、解釈そのものが分かれるところで、つまり、「なんだ、記号論か」と思われもするし「ほほう、こんなふうに記号論を」と思われもする。これはそのまま、作者の、この劇(ドラマツルギー)に特攻した冒険でもあり、反面手さぐりでもあり、逡巡や混乱ともなったようだ。つまり、下駄だ。その高さのぶん、よろめき、ふらつくのは無理もナイ。だから、最低観客(なんだか、つまらんコントだなというふうに観ている客)にも、多少のサービスをしたり、筆休めにほんとにコントを入れたりしているのだが、そんなものは、差し置いて、私は、ちゃっかりコンテンポラリー・ダンスとのコラボは盗もうと思う。これは、予想外の収穫だと、作者自らも告白しているが、原和代のeroticismは、ヒジョーに中性的な身体をコトバ(せりふ)の横っちょで紡ぎだしている。いわゆるPlatonicなのね。この冒険と挑戦を林慎一郎はもう少し続けてイイ。劇そのものは、ノアの方舟の登場で終わったから、次は『ノアの方舟』を銭湯にでも浮かべてもらおうかな。まあ、下駄の高い芝居でした。

2010年11月 3日 (水)

私だからいえるんだろけど

劇作家としては、それなりに派生する雑文も含めてだが、30年メシを食ってきたので、ともかくは胸を張ってもイイのだが、小説のほうはさんざんで、売れた試しがナイ。よって、まだまだ二流~三流の下積みだから、いえると思うのだが、水嶋ヒロについては、たぶん、プロの作家はあんまり面白く思ってナイんとちゃうかな。特に、ナントカ賞を受賞してのし上がってきた作家先生たちは、苦虫を噛みつぶすというか、溜飲の下がらぬというか、舌打ちするような感じやと思う。だいたい、水嶋ヒロというのは役者だったのを、小説家になるいうて、事務所ともめて(辞めたとか解雇とかいわれてるけど)、絢香と一緒に出来ちゃった結婚で抜けて、そいで、なんや経歴がごっつ華麗で、文武両道とかで、俳優を辞めた理由は、なんか芝居というものに興味があんましナイさかいらしくて、その絢香という嫁が難病で、まあ、いろいろと小ネタは揃ってるんですが、これからは、けっこうキビシイやろな。浮気の一つもでけへん。難病やろうと、鬼嫁やろうと嫁は嫁やから、夫婦喧嘩もするわいな。他の女に目移りすることもあるわいな、若いんやもん。そやけど遊べへん。田辺聖子先生の『ジョゼ・・・』は、犬童一心監督の最も優れた映画の原作やけど、あんなふうにならんようにな、と、半分くらいは面従腹背でいうだけや。さて、ポプラ社のその賞は、選考が編集者だということやから、まあ、業界賞ですわ。その辺の仕込みや仕組みはあります。そんなもん、芸能界でも、普通の社会でも一緒です。ポプラ社はまだ優秀な編集者が多く残っているんやと思います。芥川賞や直木賞にしても、この作家と決めたら、担当編集者が何回でも書き直させて、受賞、ということも毎度やナイけどあることはあるんです。これは悪いことではなく、いわば、編集者の力量というもんです。しかし、昨今では、作品だけでなく、作家も商品になりましたから、今後、水嶋ヒロは、作家としてはポプラ社の編集者がしばらくは同伴するでしょうけど、露出については、それなりの事務所に所属させられると思います。役者はやらんでしょうけど、執筆以外の露出活動は、その事務所がマネージメントしますねん。2000万円を要らんといえるのは、今後の執筆保証がその10倍くらいあるからやと思います(印税なども含めて)。プロの作家が、こういうことを黙して語らないのは自分かておんなじやったからですわ。と、いうワケで、私ならまだこの1日100人~150人の顧客読者のブログに書けるので、いうときまっさ。・・・で、私は、まったくアテにならんのだけど、「山田風太郎賞」狙いで、毎日コツコツと小説を書いています。いまんところ、タダ飯の身分ですから、そのあいだに、なんとか。またボツ原稿の束を作ってるだけかもしんないけど。

2010年11月 2日 (火)

死んで貰います

東京の「耳かき店員ら殺害」で、裁判員は死刑を回避して、無期の判決を出した。私が裁判員なら、間違いなく死刑だ。理由は単純だ。遺族がそう懇願しているのだから。裁判員に選ばれた人たちは、格ミサイルの発射ボタンを押す権利を委託されたワケではナイのだから、そんなに気に負わなくてイイ。無期にした理由が「被告の内省を期待」なんてのは、裁判員が自らの重圧から逃げただけで、責任回避としかいいようがナイ。「第三者の視点に立って」判断した、てな感想も裁判員の一員から聞かれたが、裁判員には第三者などもともと無い。あるのは自らの倫理の決断だけだ。私はふと、遺族の誰かがこの判決を不服として、関わった裁判員をすべて殺していくミステリを妄想した。しかし、こんな問題の多い(みたいな)制度を設けるならば、評論家の呉智英氏が提唱する「仇討ち」を復活させるほうが、スッキリしてイイ。

尖閣諸島に今度は北方領土と、きな臭くてかなわない。ここぞとばかりに、日中もし戦わば、やら、日本にはもはや核武装しかナイ、やら、たった一人の命をどうするかで、6人の無辜の民が苦渋しているときに、タカ派だか、右傾だか知らないが、その手の論客がいいたい放題だ。臥薪と嘗胆、司馬遷の『史記』にある呉の夫差、越の句践の故事を合わせて持つ臥薪嘗胆を知らないワケでなし、外交とは戦争(クラウゼビッツ『戦争論』)なのだ。私は民主党の外交(や内政)をけして支持しないが、大国の奢りや、弱みにつけ込む足払いななと放っておけばイイ。弱腰を柳腰といい、それは意味が違うと詰問し、そういうアホな(もとより政治家などに期待はしていないが)国会で幻滅するのだけはうんざりだ。

2010年11月 1日 (月)

くどいやうですが

「演じる」「演技」「演技力」はそれぞれチガッタものだ。そういうことは何度も書いたから、くどいようだが、暇つぶしに書いておく。昨日「精神力」というコトバを用いた。「心理」というもの対比してだ。およそ「心理」というコトバほどあやふやで漠然としているものはナイ。コトバは完全だという命題でいえば、「心理というコトバは完全にあやふやだ」。だいたい心理学事典にその「心理」という項目がナイというのはどういうことなのだ。いったい心理学というのは何を学んでいるのかしらん。「精神」は目の前に取り出せといっても不可能だ。しかし「精神力」というのはその作用だ。何故なら「力」(energie)だからだ。ということは「運動量」だ。位置と運動量の積を物理量と称する。つまり、「精神力」といのうは物理的なenergieであるから、数学的に表現出来るものだ。要するに数式に書けるということになる。(注・心理力などというコトバはナイ)。そうするとrobotの演技もまた「演技力」として運動量に可換されるenergieなのだろうか。それはまったくチガウ。robotのenergieは「意識」とは何の関係もナイからだ。robotのenergieは電気(electriciteit)であることなど、子供でも知っている。だが、精神力は、[意識]のあるところにしか作用しない。(もちろん、火事場の馬鹿力という無意識も含んで)。具体的にいえば、「さようなら、またあいましょう」という台詞があったとする。(耳にhandicapがある者を除いては)役者はこの台詞を口にしたとき、自分の耳でそれを聞くことになる。ここに一つの[意識]が生ずる。これは自然の過程(process)だ。かつまた、それが観客にどのように聞こえているかという[意識]を持つ。これも自然の過程だ。ここに用いられるのは「心理」などではナイ。これを「精神力」というのだ。生理学的にいえば、これだけで、脳はenergieを消費するので、糖分が代価として失われることになる。音声による発声というのは肉体における消費だからだ。そのぶん、せりふというコトバが生産されることになる。これは、まったくの運動量だから、calorieでも表すことが出来る。単純に生理学的にこの消費されたcalorieを補うためには何かを食せねばならない。脳というものにおいては、そういうことをいうだけで充分だが、意識はココロの作用だから、基本的に生理的なものと運動量がチガウ。身体において生理的でナイ物理的な運動量を求めようとすると、どうしても、量子力学に踏み込むしかナイ。量子力学においても、運動量は微分の演算だ。「演技」というものは微積分で捉え得るものだ。簡略にいえば、その瞬間の動作(瞬発力)と、積み重ねの動作(稽古の鍛練)の二つで、役者の演技は創られているからだ。もっと異なった表現を用いれば、役者の演技というのは、存在(位置・質量・potential)と動き(運動量・速度)の積としての物理量だ。これは、シュレーディンガーの波動関数にも関係する。こういう演繹的な考えをもってすれば、量子力学は、演技というものを論じる場合に有効であるということがワカル。「さようなら、またあいましょう」をせりふにする場合の、身体(音声)としてのコトバ、その動き、それらが、何故役者10人いれば、十人十色なのかは、存在と動きの積による物理量によってそれぞれが異なるからだ。(この場合の存在と動きとの関数はとりあえず括弧にいれてある)。このenergieを「精神力」と称してマチガイはナイ。

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