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2010年10月20日 (水)

シーシュポスはかく語りき・2

シーシュポスは語る。「旅路の果てというものはある。ところで、その果てをみつけたとき、初めて、ひとはそのひとの旅路につくのだ」

彼はいう。「コトバが矛盾するのは本質なのだ。ある基督教徒が私にいった。・・・愛とは敵をゆるすことです・・・と、そこで私はその基督教徒にこう述べた。・・・私は敵をゆるしたりはしない、ということで、あなたの敵になるが、あなたは私をゆるすのか・・・と。基督教徒は、頭を抱えて苦悶したままだった。つまり、その基督教徒はコトバのparadoxに陥ったのだ。それはコトバが不完全だからではナイ。コトバは完全なのだ。もし、コトバを無矛盾に用いようとするならば、コトバは不完全でなければならない」

彼はつづける。「トランプゲームをしていて、ある一枚の切り札を隠し持ってそのゲームに勝利したとしても、その者が味わう勝利は美酒だろうか、私には陰険な味の余韻でしかナイように思える。すべてのcardをきれ、そうしてのち、勝負しようじゃないか」

彼はまたこういった。「ひとは自らに都合の悪いことは忘却するか、答える意志を最初から持っていない。だから、・・・正直者はバカをみる・・・という文句や、・・・ウソも方便・・・という文句が生まれたのだ。姑息(その場凌ぎ)は、処世として意外に罷り通るものだ」

彼はさらに述べた。「これだけは如何なることがあろうと忘れるな。どのような倫理に生きていても、戦争になれば、流れ弾であろうと核爆弾であろうと、死は無分別に訪れる」

かくして、シーシュポスは、横になると眼を閉じた。

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