天才について
私の辞書には「天才」の項目にこうある。「天才とは、如何なる事態に直面しようとも、一歩前進できる才のことをいう」・・・もう四半世紀近く前から、定期的に書き下ろしを請け負っている劇団から、正月公演の戯曲について、便箋1枚、用件にして10行ばかりの要望書が届いた。四半世紀となると、劇団員もほとんど総入れ換えになっていて、演劇というものについての考え方、戯曲についての考え方、劇作家についての考え方が違うようになっていて当然に違いない。だからといって、仁義が廃っていいワケはナイ。さて、私は、この劇団の正月公演のホンを8月に提出している。ところで、今月予定されていた読み合わせ初日が中止になったそうで、その代わりに意見交換会がもたれたらしい。で、ホンに対する「第二稿の要望」が郵送されてきたというトコロだ。要望(というよりも、指示といったほうがワカリヤスイ)は4点あって、ホンの構成から、ヒロインのキャラ、プロットにいたるまで、簡潔に記されているが、その理由について(何故、そんなふうに結論したか)については何も書かれていない。また、その要望たるや、まったくの素人の発想でしかナイ。と、同時に、劇作家の戯曲がどういうふうに書かれるのかを知らないらしく、自分たちのやりたいお芝居を「こう書いて」といえば、劇作家というのは、それを文章に起こしてくれる存在(そんな仕事をしているひと)だという、認識しか持っていない。で、その要望(指示)の4点に従ってホンを書き直せば、新たに一曲、ホンを書き下ろさねばならなくなる。つまり、構成上も、モチーフやテーマにいたって、まったくの変更を余儀なくされる。要するにこうだ。まったく私のホンが読み込めていない(その能力がナイ)のと、ただ、単純に劇団とそのシンパ観客に対して、今回のホンは不向きと判断しただけだ。私は、この劇団は、すでに新生なのだから、今後の劇団としての指標となるよう、いつまでも主役の人気だけに頼らなくとも、劇団としての方向性や色合い、傾向が見出せるよう、そんな願いもこめて粉骨砕身したつもりなのだが、けっきょくは向こうは「小・商業演劇」の悪しき延命策を選択しただけだ。・・・ここで、ふつうの劇作家なら、もう一曲ホンを書くなどという時間の余裕のなさ(なにしろ、稽古は始まっているのだから)と、自身の思想的信条から、この時点で、この仕事は放棄している。ただ、この劇団は、半ば座付きで、かつ、温情なる原稿料でホンを書くという、私という天才劇作家とつきあってきたというのが、幸いした。私は、4つの要望に沿って、新たに一曲書き下ろすこともなく、それでも、たっぷり半日費やして、血圧は165を示す結果になったが、第二稿を書いて、送った。・・・要望(指示)の4点の、あまりの学芸会さの押しつけに、劇作家としての屈辱と立腹とを持ったが、天才としての矜持をもって、これに応えたのだから、それ相応の脚本料の請求はしておいた。アタリマエだ。
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