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2010年10月27日 (水)

evidence(徴候)

いまはどうなのかは、知らん。こちとらが東京でも芝居を打っていた頃、劇団(もしくはその関係者・つまり、劇作家とか役者)にはある心情的evidenceがあって、まず、聞いたこともナイようなアトリエだかスタジオだかで公演をやり、これが、ザ・スズナリ(などの本多小劇場系列)からお呼びがかかるか、そこでの公演が可能(つまり認められる)ということになり、やがて、本多劇場あるいは紀伊国屋劇場へと昇級して、新国立劇場へという頂点に至るというものだ。日本人は、こういう昇段的階級、いわばsuccessが好きなのだ。だからいまでも東大出身などと聞くと、一歩引いたり構えたり(私のようにバカにする者も稀にはいるが)する。ところで、ザ・スズナリと、新国立劇場は何がチガウのだ。何をどう差っ引いても、[権威]というものしか取り皿の上には残りはしない。そこで、この[権威]を私は、現在においての[表象 image]としての(或いは、における)システムといっているのだ。流山児の寺廻りAsyl劇場は、新国立劇場にだって、ひょいといってしまうに違いない。(誤解しないでもらいたいが、そういう身軽さ、自由さを所持しているということだ)。私なら、皇居のどこかで、陛下と皇后さまを前にして演じたいとさへ願っている。そこで陛下からあるいは皇后さまから「革命って、なんてステキなことなんでしょう」といわれるのが夢なのだ。もちろん、私は右翼とか、『WiLL』などという翼賛雑誌で盆踊りに明け暮れているスットコドッコイな駄インテリではナイ。タカモノを生業とする物書き風情だ。さて、かつてのようにこの業界はdiscではナイ。ある重層なディスクの重なりのようではあるが、女衒やら、角兵衛獅子の親方は、(また一人旅の芸人も)、このディスクの通行手形を簡易に手にすることが出来る。つまり、先月、新国立劇場の舞台に立っていたものが、今月は寺廻り劇場に参加し、来月は、テレビの二時間ドラマにも顔を出すことが可能なのだ。とはいえ、それもまたevidence(徴候)だ。小劇場(といういい方がもう通じなければ小劇団)の劇団員が、必ずしも老舗の新劇劇団の劇団員より貧乏であることなど有り得ない。悠々自適に小さな劇団、小さな劇場で、演劇を遊んでいる者もあれば、家族を養うために、商業演劇のガヤとなって、数カ月の旅をする役者も在る。劇場、劇団、劇作家、演出家、役者、どれをとっても1枚のディスクに焼き付けることは不可能だ。このevidence(徴候)が、何かに収斂していくことがあるのだろうか。「劇場法」における演劇と教育、演劇と経済(観光)が、one way ticketにしか感じ取れないのは、そのためだ。つまり、「政治的な手段、目的は、違う政治的な手段、目的に、いつでも変更されることが出来る」という命題だ。とはいえ、寺廻り劇場が、その異論になりうるかというと、前述したように、私の35年のテキ屋タカモノ生活は、それにすぐ拍手するようには出来ていない。ともあれ、高見の見物などする気は毛頭ナイので、残りの人生は、つまるところ演劇にコマを張るしかナイ。

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