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2010年10月25日 (月)

evidence(根拠)

藤原秀行名誉棋聖と、林海峰名誉天元の番碁で、囲碁史に残る勝負がある。タイトル戦名は、ちと思い出せないが、この頃、林海峰さんは弱冠ながら飛ぶ鳥を落す勢い。秀行先生も鬼神の如し。盤上、黒番の秀行さんが、白にツケた。それはそれで手である。林さんは、それは放置して大場に打つ。ところで、次に秀行さんは、いまツケたその場をハネたのだ。林さんはおやおやとは思う。しかし、いま、そんなところは打っている場合ではなく、美味しい場所はいくらもある。で、放っておいて、他に打った。事件はこのアト起こった。なんと、秀行さんは続けて、アテたのだ。いくらなんでもそんなバカな手はナイ。およそプロの、タイトル保持者の手ではナイ。ひょっとすると小学生でも打たない。たった一つの白石に対して、ツケてハネて、アテたのだから。どうみても、これは林さんの勝ち。別室での観戦者も、大いに首を捻りつつ、秀行先生、酒が残って惚けてんのかなというくらいにしか思っていなかった。しかし、秀行さんの打った三手は、一つの白石に対するものではなく、そこに厚みを築く根拠だったのだ。そんなことは、誰も予想だにしないことで、結局、この碁は、その厚みを巧みに効かせた秀行先生の勝ちとなった。・・・およそ囲碁というものは、複雑にみえるが、そうではナイ。単純なものだ。将棋と違って、置いた石は動かせないので、闘いはpotentialなものとなる。たった一個の石が勝敗を決めたり、優劣を逆転させたりする。その一手が緩着、失着、敗着、などと称される。だから、単純なものだ。しかし、単純なものほど難解なものだ。複雑だが簡単というものがある反面、単純だが難解というものもあるのだ。・・・そこで、囲碁棋士のプロ高段者やタイトル保持者などは「根拠」のナイところに石は絶対に打たない。たとえ、読み違いであろうとも、打った以上は、その棋士にとっては、その石は根拠のある場所に打たれている。・・・さて、流山児オフィシャルブログ

「以下「JOIN」という日本劇団協議会の発行する演劇雑誌に掲載した原稿を掲載します。妄想記~何処でも劇場に「なり」ます!~ 流山児祥これは「劇場」を巡る私的妄想メモです」

について、ひとことだけ、私の注釈を添えておく。

 
「では、わたしたちの「劇場」とは?私たちは志ある友人たちと共に2011年から新しい劇場ネットワーク作りを始める。全国の寺社・教会・ライブハウス・コミュニティカフェ・限界集落などを「劇場化」しそのネットワークを多くの演劇人が共有=協働する。早稲田のアトリエでプチ演劇祭を5月・6月に開催する。役者はカラダひとつあれば何処にでもふらりと往ける。5月から8月にかけて北村想との2人芝居、北村想:作『謡説浮世根問』、寺山修司:作『花札伝綺』三島由紀夫:作『卒塔婆小町』の3本を持って海外そして全国を回る。呼んでくれれば、何処でも行きます。劇場は「ある」のではなく「なる」のです。劇場とは自由に「他者」と出会う解放区=アジール(避難所:自由空間)なのである」

私(北村想)が、流山児との二人芝居を小林七緒の演出で、3月に東京の早稲田アトリエをかわきりに、全国ツアーをすることは事実だ。しかしながら、私自身は、前述した劇場ネットワークとか、「劇場化」とか、プチ演劇祭とかに関与するものではナイ。私は、流山児と小林七緒との3人よれば文殊の智慧(これはなあ、文殊菩薩のことなのヨ)に基づいて、粛々と、自身のスケジュールを調整しながら二人芝居をやるだけのことだ。「役者はカラダひとつあれば何処にでもふらりと往ける」だろうが、私は還ってヤルことがあるからな。「私的妄想メモである」ことにケチをつける気は毛頭ナイ。実に流山児らしい、勘の鋭い「劇場法」への疑問符、問いかけだと敬読した。これはこれで、一手だと思うが、読者の誤解をうまないように付記しておく。

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