evidence(証拠)
『オックスフォード連続殺人』(映画評・感想ではナイのて監督などスタッフは略す)の中で、主人公のマーティン(イライジャ・ウッド)は畏敬する数学の天才セルダム教授(ジョン・ハート)から、こんなことをいわれる。「きみも数学教信者かね」(記憶で書いているので正確ではナイのだが、差し障りはナイ)。原作の小説も、映画も、数学理論を手品師の帽子から兎のように多用してくるが、それ自体がミスディレクションの本格ミステリで、ある程度の教養があれば、べつに邪魔になるというものではナイ。オモシロイのは、数学の天才教授に、そういうせりふをいわせていることだ。「数学者は、世界が無くとも、数式は在ったと思っているんですよ」というのも、何かのホンか、ドラマで耳にしたせりふだ。つまり、数式と現実とにチガイが生ずるとき、数学教信者は「現実のほうが間違っている」と判断するらしいのだ。これは、経済学でも同じことだ。マルクスやケインズの系統、そうして数理経済学やらゲーム理論にいたるまで、それがうまくいかないときは、必ず、世間のほうがオカシイと断ずることになっている。かのチェスタートンでさへ、聖書に矛盾が読み取れるときは、必ず現実にも矛盾があることを示している、とのたまう。かのように、エビデンス(証拠)というものはやっかいなものだ。・・・「劇場法」については、フリンジ的な見解を、このブログで少し述べた。中で、「劇場法」というものに対する私の疑義は、「劇場」というものを現実のものとみなしていることだというふうにも書いた。(もちろん、建築物としてみるなら、それは現実のものには違いない)。しかしながら「劇場」は、表象(image)としてとらえた場合、ひとつのsystemだ。従って、現在の文化、芸術、表現は、「劇場」に[表象 image]としてのsystemとして存在していると了解したほうがワカリヤスイ。そうしてそれが[表象 image]としてのシステムならば、流山児の寺廻り「劇場」もまた、同じように[表象 image]としてのシステムと考えても同じだということだ。ではどこで両者の差異が発生するのか。そのシステムの違いを流山児は、網野史観のAsyl(避難所・悪場所)と規定する。「劇場法」は文化庁との不義密通を絶ち、指定管理の破綻と不備を是正しようとする新法のようにみえはするが、何れこれまでと同様に、片道切符(one way ticket)のよう気がしてならないし、寺廻りは流山児の還相としての渡世に思える。つまり、どちらにもエビデンス(証拠)となるものが何もナイからだ。そこで、極めて重要であると思われる、私たちが希求するエビデンス(証拠)の要求を提示するならば、およそ演劇の表現に「新しい」「古い」などという概念(category)が表示されたとき、そのようなエビデンス(証拠)を提示、評価基準としたほうには、私は賛同しない。私たちはいまでもアルタミラに描かれた穴居民の洞窟壁画(18500年前のもの)を感動の眼で観ることが出来るのだから。
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