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2010年9月26日 (日)

映画感想『十三人の刺客』

「死に場所」というのは死ぬ場所のことをいうのではナイ。「存在自体を規定することにと同様、死自体を規定することは無意味な観念論である。存在も死からも我々は如何なる意味を抽出することも出来ない。存在は作用化されたときにのみ意味を持つ。意識的な死とは作用化された死と考えられる。死も又作用化されたときにのみ意味を持ち得る」(あえて出典を記さず)。・・・まるでこの映画のために書かれたような一説だが、そんな論理はともかく、あたしゃ、この映画、ハナっからオワリまで泣いてました。理由?どうでもいいじゃないか。いわゆる「病もの映画」などは犬のクソだとして、いいよねえ、頬をつたう涙。映画館は暗いからバレることはないし。この映画は1963年の東映映画のリメイクですが、当時の映画が池宮彰太郎さんのオリジナル脚本だとは知らなかった。(監督はかの工藤栄一さんです)。で、それを元にしているのですが、東映作品では、ひじょうにリアリティを持って評価された有名な剣豪のせりふは削除されています。が、そのほうが合理的なのだということは映画を観ていればわかりますし、剣豪のキャラも少しも劣化させていません。スジ(脚本)がすこぶるいいのです。どういいかというと、恐れずに時代劇を書いているところです。妙にやさしくしていません。ヌケ(演出)も、多作多分野の三池祟史監督ですが、エンターティンメントはさすがですし、武士の所作にもいい加減なところはありません。対面する相手によって刀の位置を弓手から馬手に移動させるところなんかは、おみごとですし、そうかと思えば、途中で息抜きのギャグも挟んでくれます。ドウサ(演技)もさすがです。あたしゃ、贔屓の谷村美月さんがどこに出てたのかワカラナクテ、ついついパンフを買ってしまいました。 暴君(暗殺される悪役)の稲垣呉郎くんは難しいキャラだったと思います。いま少しせりふを減らしたほうが、というのが、同業者からの感想ですが、いろいろと事情もあったんでしょう。これはそうですね、ヴェネチア国際映画祭でも、観客賞くらいあげれば良かったんじゃナイでしょうか。・・・「死に場所」、この映画のThemaはそこにつきます。そういうふうに観ると、冒頭の原爆に触れた説明カットの意味もワカルってもんです。どう生きるかなど許されない時代、どう死ぬか、が、問題なのです。

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