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2010年9月25日 (土)

否定としての劇場

1980(昭和55年)10月、名古屋の七ツ寺共同スタジオで行われた『高校生のための演劇ゼミナール』で講演した山崎哲氏に、講演後、客席の高校生から、こういう直截な質問があった。「何のために演劇やってんですか」。山崎氏はややコトバを選びつつも多少の照れ笑いを含めて「革命のためです」と答えた。聞いていた私も苦笑したが、それは嘲笑ではなく、たぶん山崎氏はそう答えるだろうと予想していたとおりの答であったことと、私もまた、そう答えたに違いないということに対する応答であった。おそらく、いま同じ問いがあっても、山崎氏はそう答えるであろうし、私もいまならば躊躇なくそう答えられる気がする。・・・[革命]は死語ではナイ。ただ、資本家(資本主義国家)と共産主義intelligentsiya、無産者(Proletariat)或いは労働者の階級闘争における、マルクスの説いた革命はすでにno sideだ。しかも、資本主義の勝利によって。社会主義国家は、みなスターリニズムに陥って零落し、スターリニズムを棄てることもなく、活路を一党独裁資本主義にみいだしたからだ。日本共産党などがやっていることは、落ち穂拾いか、骨董品商売にしか過ぎない。では、革命はどこに息をひそめて棲息しているのか。もともと[革命]というのは神に対しての天使ルシフェルの異議申立で、のち、ルシフェルは堕天使となって、Satanと称されることになるのだが、理屈でいえば、私たちの表現行為は神と同等に創造に携わろうというのだから、ルシフェル=Satanの領域、概念、categoryに入る。それゆえ、原理的、根源的にその根幹に「否定」を含んでいる。なぜなら、神の創りたまいしこの「世界」、この「自己」にnonをつきつけたのだから。創造を成さんとすれば、まず否定をせねばならない。・・・では、村芝居の歌舞伎小屋はいったいナニを否定したのだろう。歌舞伎は基よりジャーナリズムだ。むろん、本場の江戸歌舞伎は、だ。しかし村歌舞伎は相当の遅延をもって、上演される。少なくとも「花のお江戸ではこんなことがあったんだそうだ」として、たとえ玄人が招聘されても、そのように上演される。従って、事件性というものとはほど遠い。おそらくそういう類は、村芝居の歌舞伎においてはあまり重要なことではなかったに違いない。重要であっても、題材としての二次的なものでしかナイ。では、本場歌舞伎のニュース性を消去して、村人たちが最も関心を持ったこととは何か。たぶん、本場玄人の芝居の「真似」をすることだった。江戸まで観に出ることはなかなか出来ぬが、自らが演じることは出来そうではナイか。つまり、そういう[虚構]という意味性を、村人たちは発見したに違いない。それは無意識において、現実生活のナニかを「否定」してくれるものであった。江戸歌舞伎とそっくりな小屋は、そのような虚構(否定)の象徴として、そのままに真似をして建築された。現実生活のナニかとは、何か。それは、その村に横たわる共同性(共同幻想)としての如何ともしがたい秩序であったとしかいいようはナイ。それは、現実では打ち破れないが、虚構でなら否定出来る。こうして、村歌舞伎は発展したが、その無意識であった共同性の秩序が現実に解体されたところで、村芝居の歌舞伎小屋もその役目を終えたということになるが、その小屋は、ひとつの[革命]であったといって過言ではナイ。何故なら、そこで演じられた虚構は、そのまま無意識のうちに革命を遂行したのだから。

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