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2010年9月24日 (金)

無意識の劇場

日本演出者協会・中津川市の共催で開催された、『2010演劇camp in中津川』の中心となった常盤座(村芝居の歌舞伎小屋)で、その古き結構を漠然と眺めていた私の脳裏にやってきた、ワカラナイものを考え続けていたが(それは鬱病の初期症状と重層的に去来したのでやっかいだったが)、いまなら、ひとことでいってしまえる気がする。それを「劇場にある無意識性」と呼称することにする。なぜ、そんなものが過っては消えたのか、理由は明確だ。頭の片隅に引っかかって離れようとしない、昨今取り沙汰されている、いわゆる[劇場法]というシステムに呼応していたからだ。おそらくは多くの演劇関係者が集まったから、同様のことに気づいたものもあったに違いない。そうであってもらいたいと願う。少し脳の具合が変調しているので、とっちらかってしまうかも知れないが、おそれずに進むことにする。[劇場法]というのは、今後の劇場の在り方を示したチャートだが、それは、劇場運営管理の新しいシステムとして語られているように当方は解している。従って、その大きな変換は経済である。そこで、そう称してもいいのなら、反対派、異論派、批判派がいうところは、それに対しての人材倫理と「総称」してもいい論理を楔に打ち込むように傾斜する。これは「銭だけじゃナイんだ」から「銭の配分に問題がある」までの命題を含んでいる。巨視的にみれば、[劇場法」は、構造改革といえなくもないからだ。ところで、この対立図式に、私はどうしても違和をかんじぜずにはいられなかった。というのも、いったいぜんたい[劇場法]は「劇場」の状況を語りはしているが、本質を語ってはいないのではないかという、隔靴掻痒だ。これを前述した概念を援用していいかえるならば、「意識的な劇場」は語られているが、その陰にひそむ「無意識的な劇場」が語られていないのではないか、ということだ。常盤座で漠然と感じたのは、劇場というものには「無意識性」が存在するということだ。常盤座に存在した無意識性はすでに「解体」されてしまっている。従って前述したコトバを正確にいうのならば、私が感じたのは「解体された、劇場の無意識性」だ。どうして、そんなことを思ったのかを、別の視点からいえば、現在20を越える保存会なしでは、中津川の複数の村芝居の歌舞伎小屋は存続出来ないのだが、なぜ、過去において村にひとつ歌舞伎小屋が出来るほど盛んだったものが、いま、消滅したのかという疑問から、それはみえてきたものだ。過去には、常盤座その他の村歌舞伎の小屋には、それを支える共同の無意識性が存在したのだが、それが、何か、べつのものに取って代わられたということになる。それをして「解体」されてしまったと述べているのだが、いくら解体されようと、常盤座には、その共同の無意識性の痕跡を観ることは可能なのだ。では、現代の劇場にある共同の無意識性(明晰ならざる本質)というのはナンなのだ。おそらく[劇場法]が成立施行されても、その共同の無意識性が、普遍的に陰にあって私たちを操作している限り、演劇は既存のまま、あるいは退行を余儀なくされて、いずれ、常盤座の虚構と同様に、解体霧散の途につくような気がしてならない。・・・のは、鬱病のせいかな。

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