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2010年9月

2010年9月30日 (木)

illusionとしての劇場

「ホンネを描くとボツになる。だからきれいごとばかりになる。そんな社会が健全だとは私には思えませんし、きれいごとを言う人は、信用できません」(二階堂正宏『のりこ』新潮社・著者に聞くより)。二階堂氏の過激ナンセンス漫画は、その作品『鬼平生半可帳』の連載中止(のちに愛育出版から奇蹟的に出版の猛烈なエロ・ナンセンス)でも知られるように、いや、知られるというなら、『極楽町一丁目』の嫁姑の殺し合い漫画のほうが知られているだろうけれど、ともかく、「そのとおり」と首肯しつつ、ひとには黙っておこうという傾向の作品ばかりだ。この「著者に聞く」は、各ショート漫画のあいだに編集者と交わされるひとことで、同じ形式は『むーさん』(ただ、いろいろヤルだけの読者願望大満足漫画)にも採用されている。午前中に書いたブログの詩を読んで、かつての劇団員から、あんなふうに書くとヒステリックな役人から誤解されませんかと案ずる電話があった。(もちろん、ウソの帳面をつくったというくだりのことだ)あえて、詩にしたのは、metaphorでfictionであることを示したのだから、かまわねえと返事したが、文化庁から銭をもらってしのいでいたのは事実だ。査定というか、監査というか、調査員がやってきて、不正がナイかどうか調べたのも事実だ。このとき(と書くと物語的になるが、ほんとは御国から銭をもらうようになってからだ)私のいだいた心情は、屈辱とはまた違った、ワケのワカラナイ、奇妙な、矛盾した、静かな錯乱、に近かった。それは単に自分たちの演劇の経済的疲弊に対する負け戦のせいだと当時は思考を処理していたが、いまは、そうではナイことがいえる。基より自分が演劇みたいなものを始めたのは、そこで生きていくしかしょうがナイと判断したためだが、けして消極的な逃避ではなかった。いわゆる積極的逃避(川島雄三)だ。では、何故、そんな観念的地点まで積極的に逃避しなければならなかったのかと、当時を思い起こせば、そこが「権力」から最も遠い場所であると、無意識に推測したというしたナイ。と同時に、そのようなヤクザな環境が、自らの個人的な生き方としては適していると、自堕落な生活を肯定したからに他ならない。そのときにココロに留め置いたのは「人生、棒に振ろう」ではなく、「人生から棒のように振られよう」だったと記憶している。図らずも、58年の私はそのようになってしまった。だから、別に何の悔いもナイ。ただ、演劇というものが集団の事象であることによって、他人の人生まで巻き込んでしまったのではナイかという強い加害者意識はいまも残るし、鬱病にときは、それが自責の念となって苦しめられる。ちがえていえば、私には、個々の生き方を左右する権利など何もなかったのだから。・・・さて、御国から銭をもらうようになってから、私には、私の生き方や劇団や小屋が孕んでいたillusionがみんな吹っ飛んで、引っくり返されたような気がした。というより、自分たちの生きざまの支えがなんであったのかが、鮮明にみえたといったほうがイイ。私たちのような「人生から棒のように振られた」者にも、生きる場所があるのだ。それはそれで個々の生きざまで、劇場というものは、それらのillusionを背景に持つ象徴ともいえなくはナイ。「銭を出します。どういう作品を創りますか、テーマ、主旨、活動記録はナンですか。終了時には報告を。ああそれと、審査があります・・・」そういうふうに生きてきたんじゃねえんだよなあ。

理由

ぼくが劇団をやめたのは それぞれに ノルマというものがうまれたからだ

ぼくが劇団をやめたのは それぞれに 団費というものがうまれたからだ

御国から 芸をするなら銭をやるぞと いわれてからは

帳面の数字をウソにして しばらく芝居小屋もつづけてみたけれど

ある日調査のひとがきて 銭はどうですかと 聞かれたときに

たいへんありがたいですと またウソをつき

これを面従複背というのだろうが それはぼくに対するぼくの背信で

そうして あんたたちへの背信だったから

そこで 劇団も小屋もちゃらにした

(しかしね、あんた、その御国の銭は、あんたたちの血税だよ)

御国からの銭から血など出たためしはナイから それは からのからだから

斬って血の出ないものなど ぼくは信じていない

ちょうど カラスの鳴く声を朝に聞くほど イヤなものはナイように

けれど また ぼくたちは 乞食なのだから あんたたちの銭は 

あんたたちの銭だと頭をさげて ありがたく ちょうだいもしよう

それにみあう 芸当くらい ぼくたちは みせられるだろうから

けしてぼくたちの声はカラスの黄色いくちばしから出ているのではナイのだから

(それで、どうすんだい)

ぼくたちは ぼくたちの銭で ぼくたちの 出発の墓標をたてるのさ

           

2010年9月26日 (日)

表象としての劇場

ふつう流布されているように、能狂言のうち、能はintelligentsiyaのもので、狂言は庶民大衆のものだというのはまったくの錯誤だ。というのも、能狂言は、600年の歴史を持つが、一切は大名のお抱えで、大名自身も能を演じ、狂言は、庶民大衆とはこういうものだという笑い話として、彼らの娯楽であったに過ぎない。つまり、能狂言を観ることのゆるされた者は、庄屋、名主といった者が、せいぜい一年に一度だけで、羽織袴に上下姿で、下座に座っただけだ。現在、能狂言で用いられている装束は、600年前のものだが、それだけ丁寧、慎重に扱われ、また、豪華、贅沢な布地が使われているのはそのためだ。歌舞伎は、そうではなく、これこそは庶民大衆の娯楽だが、江戸時代は文字通りの小屋掛けで、筵や茣蓙でつくった小屋(つまり、そういうものを竹の骨組みにかけただけのもの)から、芝居が「かかる」という「かかる」は、このコトバが転じたものだ。彼らは、河原に居住することしか許されなかったので、「河原もの」と称されるようになった。ただし、「河原乞食」というのは本来は、芝居ものとは直接関係はナイ。乞食は、食を乞う、のだから、もともとは托鉢の僧を含む、修行僧のことをいう「こつじき」に語源がある。単に乞食(こじき)としての職(というのも変ないいかただが)は、大道芸(テキヤの部類)に含まれるので、乞食(こじき)のほとんどは、職業的に乞食をやっていたに過ぎない。私がテキヤをやっていた頃に親分から聞いた話では、乞食衣装道具一式というのは、すぐに営業出来るように用意されていて、さらに子ども一人付きというのもあったという。・・・従って、常磐座がお江戸の歌舞伎小屋を模倣したのは、明治に入ってからのことだ。そのとき、おそらく村民は、劇場である歌舞伎小屋の建築物そのものを欲したのではナイと考えたほうがイイ。では、なにを小屋に求めたかというと、本場の歌舞伎小屋が持つ、浮世離れ(現実を越えた、虚構)としてのイメージだ。もちろん、そのイメージは意識的なものではなく、無意識的に村人たちに入り込んだイメージだ。つまり舞台の上で演じられる物語(虚構)それ自体ではなく、虚構が無意識のうちに「否定」してくれるものを、歌舞伎小屋のイメージのうちに感じ取っていたに違いない。裏を返していえば、本場でも、村芝居の歌舞伎小屋でも、その虚構の陰の部分である無意識のイメージにおいては、現実世間への強い「否定」が働いていたと考えてイイ。この「否定」こそが[革命]へのpotential(潜在的)lな誘導であった。声高に革命を謳ったプロレタリアート演劇が、これを表に引き出したとのかというと、それはまったくそうではなく、まるで逆で、彼らは「否定」ではなく「現実(realism)」とやらを、さも演劇の本質のように、その表層に張り付けただけだ。演劇の持っている本質的な「否定」は、演劇を営為する個人のイメージと、劇場(小屋)そのものが社会的に「否定」するイメージとにおいて、無意識のうちにしかむすびつくことはナイ。すると、劇場をあるシステムで支配するということは、論理的には、前述したような「リアルな劇場」をつくりあげるという意識的(状況的)な行為にしか過ぎず、ほんとうに私たちが「否定」しなければならないものは、つまり[革命]は、ついに死語の辞典に書き加えられることになる。

映画感想『十三人の刺客』

「死に場所」というのは死ぬ場所のことをいうのではナイ。「存在自体を規定することにと同様、死自体を規定することは無意味な観念論である。存在も死からも我々は如何なる意味を抽出することも出来ない。存在は作用化されたときにのみ意味を持つ。意識的な死とは作用化された死と考えられる。死も又作用化されたときにのみ意味を持ち得る」(あえて出典を記さず)。・・・まるでこの映画のために書かれたような一説だが、そんな論理はともかく、あたしゃ、この映画、ハナっからオワリまで泣いてました。理由?どうでもいいじゃないか。いわゆる「病もの映画」などは犬のクソだとして、いいよねえ、頬をつたう涙。映画館は暗いからバレることはないし。この映画は1963年の東映映画のリメイクですが、当時の映画が池宮彰太郎さんのオリジナル脚本だとは知らなかった。(監督はかの工藤栄一さんです)。で、それを元にしているのですが、東映作品では、ひじょうにリアリティを持って評価された有名な剣豪のせりふは削除されています。が、そのほうが合理的なのだということは映画を観ていればわかりますし、剣豪のキャラも少しも劣化させていません。スジ(脚本)がすこぶるいいのです。どういいかというと、恐れずに時代劇を書いているところです。妙にやさしくしていません。ヌケ(演出)も、多作多分野の三池祟史監督ですが、エンターティンメントはさすがですし、武士の所作にもいい加減なところはありません。対面する相手によって刀の位置を弓手から馬手に移動させるところなんかは、おみごとですし、そうかと思えば、途中で息抜きのギャグも挟んでくれます。ドウサ(演技)もさすがです。あたしゃ、贔屓の谷村美月さんがどこに出てたのかワカラナクテ、ついついパンフを買ってしまいました。 暴君(暗殺される悪役)の稲垣呉郎くんは難しいキャラだったと思います。いま少しせりふを減らしたほうが、というのが、同業者からの感想ですが、いろいろと事情もあったんでしょう。これはそうですね、ヴェネチア国際映画祭でも、観客賞くらいあげれば良かったんじゃナイでしょうか。・・・「死に場所」、この映画のThemaはそこにつきます。そういうふうに観ると、冒頭の原爆に触れた説明カットの意味もワカルってもんです。どう生きるかなど許されない時代、どう死ぬか、が、問題なのです。

2010年9月25日 (土)

否定としての劇場

1980(昭和55年)10月、名古屋の七ツ寺共同スタジオで行われた『高校生のための演劇ゼミナール』で講演した山崎哲氏に、講演後、客席の高校生から、こういう直截な質問があった。「何のために演劇やってんですか」。山崎氏はややコトバを選びつつも多少の照れ笑いを含めて「革命のためです」と答えた。聞いていた私も苦笑したが、それは嘲笑ではなく、たぶん山崎氏はそう答えるだろうと予想していたとおりの答であったことと、私もまた、そう答えたに違いないということに対する応答であった。おそらく、いま同じ問いがあっても、山崎氏はそう答えるであろうし、私もいまならば躊躇なくそう答えられる気がする。・・・[革命]は死語ではナイ。ただ、資本家(資本主義国家)と共産主義intelligentsiya、無産者(Proletariat)或いは労働者の階級闘争における、マルクスの説いた革命はすでにno sideだ。しかも、資本主義の勝利によって。社会主義国家は、みなスターリニズムに陥って零落し、スターリニズムを棄てることもなく、活路を一党独裁資本主義にみいだしたからだ。日本共産党などがやっていることは、落ち穂拾いか、骨董品商売にしか過ぎない。では、革命はどこに息をひそめて棲息しているのか。もともと[革命]というのは神に対しての天使ルシフェルの異議申立で、のち、ルシフェルは堕天使となって、Satanと称されることになるのだが、理屈でいえば、私たちの表現行為は神と同等に創造に携わろうというのだから、ルシフェル=Satanの領域、概念、categoryに入る。それゆえ、原理的、根源的にその根幹に「否定」を含んでいる。なぜなら、神の創りたまいしこの「世界」、この「自己」にnonをつきつけたのだから。創造を成さんとすれば、まず否定をせねばならない。・・・では、村芝居の歌舞伎小屋はいったいナニを否定したのだろう。歌舞伎は基よりジャーナリズムだ。むろん、本場の江戸歌舞伎は、だ。しかし村歌舞伎は相当の遅延をもって、上演される。少なくとも「花のお江戸ではこんなことがあったんだそうだ」として、たとえ玄人が招聘されても、そのように上演される。従って、事件性というものとはほど遠い。おそらくそういう類は、村芝居の歌舞伎においてはあまり重要なことではなかったに違いない。重要であっても、題材としての二次的なものでしかナイ。では、本場歌舞伎のニュース性を消去して、村人たちが最も関心を持ったこととは何か。たぶん、本場玄人の芝居の「真似」をすることだった。江戸まで観に出ることはなかなか出来ぬが、自らが演じることは出来そうではナイか。つまり、そういう[虚構]という意味性を、村人たちは発見したに違いない。それは無意識において、現実生活のナニかを「否定」してくれるものであった。江戸歌舞伎とそっくりな小屋は、そのような虚構(否定)の象徴として、そのままに真似をして建築された。現実生活のナニかとは、何か。それは、その村に横たわる共同性(共同幻想)としての如何ともしがたい秩序であったとしかいいようはナイ。それは、現実では打ち破れないが、虚構でなら否定出来る。こうして、村歌舞伎は発展したが、その無意識であった共同性の秩序が現実に解体されたところで、村芝居の歌舞伎小屋もその役目を終えたということになるが、その小屋は、ひとつの[革命]であったといって過言ではナイ。何故なら、そこで演じられた虚構は、そのまま無意識のうちに革命を遂行したのだから。

虎穴に入らば

戦後の新興宗教の根幹となって大きな影響を与え、その神託と予言や教団の勢力を警戒され、国家から二度にわたる大弾圧を受けた大本教の出口王仁三郎(出口ナオを継いでいるので、教祖ではナイが、実質的な教祖とされている)は、次のような説法を残している。「虎穴に誤って入り込んで出られぬとき、目前にいる腹を減らした虎に勝つ方法がひとつだけある」それは、その虎に「喰われる前に喰わせてやるのだ」というう主旨のものだ。これは、拙作の戯曲『寿歌』でも引用したので、出典は定かではナイが、私自身よく記憶している。で、と、昨今の、中国人の船長さん釈放については、そういうふうに考えたほうが手っとり早い気がする。日本の保守系をはじめとする一般的intelligentsiya、政治家の多くは、今回の処置を、中国の居丈高な圧力に屈した国辱的処置と憤慨しているが(そうしてたしかに、中国の圧力は暴力団さながらの強硬なものだったのだが)、おかしな点が一つある。どなたも日本を「法治国家」であるという前提で、その法を超えての(いわゆる超法規手段)方法に、矜持を蹂躙されたと、フンガーといわれているところだ。簡単にいってしまえば、日本は「法治国家」ではナイ。では何かというと「立憲主義国家」だ。「法治国家」はむしろ中国のほうで、これは「国家法治」といったほうがワカリヤスイかも知れない。つまり国家が法によって国民を治めているということだ。日本の場合は「立憲主義」なので、逆に国家による国民の法治を立憲(日本国憲法)によって制御しているということだ。日本は民主主義国家だといわれるが、アメリカのような民主主義国家ではナイ。民主主義から全体主義や、その逆に一個人の権力行使に陥るところを立憲主義によってバランスをとっていると思えばイイ。中国は、ともかく国民を法治しなければならないので、それはつまり中国共産党という一党独裁による法治なのだが、それが危うくなると困るワケで、今回のことは、船長さんを助けたかったからではナイ、などということは、日本の国民は誰でもワカッテいることだ。尖閣諸島の領海権にまで、あるいは東シナ海のガス田の争奪にまで、乗り出して、台湾に対する威圧のために空母の量産に踏み切り、いったいこの国家はすでに社会主義ではナイ(もとから共産主義でもナイのだが)のだが、ここまで、対日戦線を活発化させているのは、私たちの目にはみえないところで、なんらかの疲弊がこの国家法治の国で始まっているのだとみてイイ。新聞やニュースにこそ登場しないが日中経済戦争は、熾烈に現在も続行されている。今回の出来事は、その一部分が露出したのに過ぎない。

2010年9月24日 (金)

現状

私の場合、身体症状が現れたら、もうそこでoutなので、それだけを警戒している。身体症状は背中(背筋)を鉛で突き抜かれた感じ、目眩感、ヤク中のヤク切れ(は、こんなんだろうな感覚)、震え、けだるさ、倦怠感等々。いまのところ、希死念慮は強いのがきたりするが、ともかく去るのを待つ。自責(加害者妄想)は、こいつは痛烈。ただ、脳のほうは、必死にそれを解決しようと、考えはする。鏡をみると、目がくぼんで、隈が出来、ひどい顔になっているが、母親はもう目が悪いので助かっている。食欲はあるが、多くは食べられない。次第に出かけるのが億劫になっている。積極的逃避で、aggressiveなのを利用して、ブログを書いている。日常的なことを考えると必ず悪い結論を出すので、それとは離れた思考パターンを極力保つようにしている。だから、明日は『表象としての劇場』というタイトルで、劇場論のつづきの予定。また、一日に二本もDVDを観る日がある。ともかく、自身に関心を寄せつけないということ。・・・さらに、ひとついえること。どんなことでも、「決定」されたことなどはナイのだから、精神(疾患、状態、状況)もまた決定されたものであるというのはオカシイということ。

無意識の劇場

日本演出者協会・中津川市の共催で開催された、『2010演劇camp in中津川』の中心となった常盤座(村芝居の歌舞伎小屋)で、その古き結構を漠然と眺めていた私の脳裏にやってきた、ワカラナイものを考え続けていたが(それは鬱病の初期症状と重層的に去来したのでやっかいだったが)、いまなら、ひとことでいってしまえる気がする。それを「劇場にある無意識性」と呼称することにする。なぜ、そんなものが過っては消えたのか、理由は明確だ。頭の片隅に引っかかって離れようとしない、昨今取り沙汰されている、いわゆる[劇場法]というシステムに呼応していたからだ。おそらくは多くの演劇関係者が集まったから、同様のことに気づいたものもあったに違いない。そうであってもらいたいと願う。少し脳の具合が変調しているので、とっちらかってしまうかも知れないが、おそれずに進むことにする。[劇場法]というのは、今後の劇場の在り方を示したチャートだが、それは、劇場運営管理の新しいシステムとして語られているように当方は解している。従って、その大きな変換は経済である。そこで、そう称してもいいのなら、反対派、異論派、批判派がいうところは、それに対しての人材倫理と「総称」してもいい論理を楔に打ち込むように傾斜する。これは「銭だけじゃナイんだ」から「銭の配分に問題がある」までの命題を含んでいる。巨視的にみれば、[劇場法」は、構造改革といえなくもないからだ。ところで、この対立図式に、私はどうしても違和をかんじぜずにはいられなかった。というのも、いったいぜんたい[劇場法]は「劇場」の状況を語りはしているが、本質を語ってはいないのではないかという、隔靴掻痒だ。これを前述した概念を援用していいかえるならば、「意識的な劇場」は語られているが、その陰にひそむ「無意識的な劇場」が語られていないのではないか、ということだ。常盤座で漠然と感じたのは、劇場というものには「無意識性」が存在するということだ。常盤座に存在した無意識性はすでに「解体」されてしまっている。従って前述したコトバを正確にいうのならば、私が感じたのは「解体された、劇場の無意識性」だ。どうして、そんなことを思ったのかを、別の視点からいえば、現在20を越える保存会なしでは、中津川の複数の村芝居の歌舞伎小屋は存続出来ないのだが、なぜ、過去において村にひとつ歌舞伎小屋が出来るほど盛んだったものが、いま、消滅したのかという疑問から、それはみえてきたものだ。過去には、常盤座その他の村歌舞伎の小屋には、それを支える共同の無意識性が存在したのだが、それが、何か、べつのものに取って代わられたということになる。それをして「解体」されてしまったと述べているのだが、いくら解体されようと、常盤座には、その共同の無意識性の痕跡を観ることは可能なのだ。では、現代の劇場にある共同の無意識性(明晰ならざる本質)というのはナンなのだ。おそらく[劇場法]が成立施行されても、その共同の無意識性が、普遍的に陰にあって私たちを操作している限り、演劇は既存のまま、あるいは退行を余儀なくされて、いずれ、常盤座の虚構と同様に、解体霧散の途につくような気がしてならない。・・・のは、鬱病のせいかな。

アタリマエです

エンタメニュースには見出しだけでもざっと目を通すが、今日開いたのは、NHK大河ヒロインの上野樹里の奇行(つまり、ワガママ)のお話。監督には意見をする(演出になのか、脚本になのかは知らん)共演者の演技にもダメ出しする、で、絶対に妥協しない。と、同時に大物女優(なんだかいっぱい出てるのね。NHKの出演料はNHKの規定、つまりお手盛りだから)。とはタメ口をきく。読み合わせで途中、いなくなる。て、ことで女織田裕二といわれている、とのこと。同世代の女優では実力№1といわれている、らしいけど、ほんとかよ。オレは、綾瀬はるかのほうが出来ると思うけど。いや、けして樹里さんがキライなのではナイ。いい芝居します。これが箸にも棒にもかからない大根の、名前だけのham女優であるなら、言語道断だろうけど、樹里さんの脳裏にあるのは、宮崎あおいでしょう。あったりまえじゃん。彼女の大河より視聴率落として、負けるワケにはいかないからな。監督に意見するというのもアタリマエで、NHKの監督(ようするにdirector)の力量なんて、いいとこ猿真似でしょう。どうせ漫画読んでしか勉強してナイ手合いなんだから。いま民放が、いよいよ経済的に苦しくなってきて、つくる番組は何の工夫もなく、それならもう通販番組なんてことやってるのに、NHKは竹の子会社ばかりつくって(おい、この公共放送こそ、天下りの最たるもんだぜ)銭があるから、どこのトンマの子息だか知らないのも、礼儀知らずも、世間知らずも、想像を絶するほど混じっているのだ。おまけに、契約で雇っているスタッフ(たとえば美術会社)には、差別の激しいこと。クロンシュタントの叛乱でも起きるんじゃねえかと思えるほど。オレは、その現場でソフトでもハードでも働いたことがあるから、身をもって知ってんの。・・・さて、織田裕二にされてしまうのはひでえ話だが、そんな中で、1年間の大河の主役を張っていかねばならないとなると、文字通り「張って」いかねばならないのはいうまでもナイ。命を張る、気を張る、演技を張る、これアタリマエです。大竹しのぶは、樹里さんの「奇行」とやらを、面白がっているのだそうだけど、さすがに、天才は天才を知るだねえ。馬鹿なのは、こういう女優の「奇行(わがまま)」だけを真似したがるham actressだけ。オレは、樹里さん、応援するぜ。たぶん、ドラマは観ないけど。

2010年9月23日 (木)

だからどうだというんだ

世に「心霊写真」というものがある。ホンモノか偽物か、こういうものは、UFOの写真と同じで、100万枚のうち99万9999枚が偽物でも、たった1枚がホンモノであれば、ようするに、その存在は確定、認証されることになる。従って、宝くじより当たる確率が低くとも、当たればイイのだから、撮ったほうには有利だといわねばならない。ところで、ホンモノの「心霊写真」というものがあるとしよう。私が常々いいたいのは、「だからどうだというんだ」というひとことだけだ。よしんば、それがホンモノの心霊だの幽霊だの霊魂だのの写真だとして、だからどうだというんだ。そこを説明してくれるひとが出てきた試しは、知るところ皆無だ。「ですから心霊というのはあるんですよ」という応答に対しても、同様に「だからどうだというんだ」と再度同じ問いかけをすれば足りる。「祟りますよ」、あっそうかい。しかし、向こうは心霊だから、死んでるんだろ、こっちは生きているんだ。命懸けで生きているんだ。のうのうと死んでいるモノに舐められてたまるか。というのが、私のaggressiveな態度だ。・・・もう一つ、疑問に思うのは、心霊写真に映る心霊というのは、こういうふうに出ると(映ると)観るものが怖がるということを、どこで覚えたんだ。観るものが怖がるという理屈をなぜ知っているんだ。・・・「幽霊は裸でなければならない」というのは王充の卓越した論文『論衡』の「論死篇-死とは何か-」に記されてある。つまり、心霊や幽霊が、ひとの霊魂、魂(精神)であるのならば、着衣にはそんなものはあるはずがなく、当然、幽霊は裸でなければならないという論理だ。この王充の『論衡』は、ぱらぱらと読んでみても、暇がつぶせるくらいオモシロイ。・・・いま、鬱病の入り口にあって、本日は希死念慮が薄らいだのは、「だからどうだというんだ」というコトバの発見にあり、このアトには「もう、どうでもいいじゃないか」と付け足したいところだ。もはや不浄の義理ゆえに、構えていなければならない年齢でもナイ。義理などすべて返したからな。人情紙風船の世知辛い世間だ。人情で生きて有終の美とさせていただきたく、候、だ。

2010年9月22日 (水)

たいしたことではナイ

地球に生命体が出現してから38億年。ダーウィンの種の「起源」はそれだ。それから38億年、私のDNAの遺伝子には、38億年の生命体のココロが記録されているんだろうが、そう考えると、私の個体としての私などは、38億年のアーカイブスにおいて、「かけがいのナイ私」なんてものは、あるのかどうか、あってもそうたいしたことではナイのではないかと思われてくる。・・・中津川での「北村想」仕事を終えて、ああ、この夏は、猛暑なのにかなりの仕事をこなしたなあと、呆れているし、この八ヶ月、通帳の数字にほとんど変動がナイないのは、タダ飯を食ってるせいもあるだろうけれど、適度に入金もあったからだろうと、そんなもんかと妙に納得している。このあいだ、法的に離婚が成立して、財産分与と、慰謝料と、そっちのほうも滞りなく終了し、no sideということになった。失ったもの、得たものもあったろうが、お約束どおりというか、鬱病のdownがゆるやかに始まって、兆候としての希死念慮と、自責が訪れる。こういうときの判断はまず間違っているのだが、私は、私以外のひとの人生の責務を担うようなことは、もうやるべきではナイと、自身を叱責しているし、ただただ、私は適宜死ぬまで、北村想の仕事をやっていればいいのだと、孤独に認識している。鬱病との死闘(まさに死を賭しての、だ。それだけは、罹患したものにしかわかるまい)を切り抜けてはきたが、いつ疲れ果てて、3万余人の中に数えられるか、ワカッタもんじゃナイ。しかし、それもこれも、たいしたことではナイのだ。そう思って頂ければ、それに越したことはナイ。この38億年のいま、偶然の確率で生まれ合わせた同胞たちに、心から、感謝の挨拶。

2010年9月16日 (木)

またまた休業

つい三日ほど前の一週間余、開店休業で(なんか一言ずつ書いてましたが)東京へ行ってるあいだに、届いていたメールが48通。返事が遅れて、ご迷惑さんでした。ところで、明日からまた5日ほど、演劇キャンプ中津川です。去年はキンタマぶらぶらしているだけでよかったんですが、今年は講師の仕事があったりして、キンタマぶらぶらしてられないもんですからって、そんな真面目に講師なんてねえ。あたしゃ、バックレてsabotage。サボタージュってのは靴の種類のことなんですよ。サボるってのは、まあ、日本語のようで日本語でもナイのね。さすがにバックレまでは何語か知りません。では、また。

2010年9月15日 (水)

いっちまうのかい

民主党代表選挙で、管再選。で、「雇用、雇用」とにかく雇用だそうで、迷っているなら100万出すから雇えって。しかし、大企業から中小企業まで、リストラ、派遣ギリ、大量解雇と、そうしなければ日本経済は破綻するてなこといって、大量に失業者を作り出したのは、ついこないだのことじゃないのか。そう簡単に、世界の経済情勢ってのは変わるのかね。日本国憲法第9条がどうのより、主権在民だと、けっきょくは、国家権力統制の社会帝国主義「中国」の一人勝ちになるから、要するにいわゆる「平和ボケ」というのは、主権在民のことじゃないのか。と、いいだすのが、いるにちげえねえぞ。なるほど、中国のように狡猾(ズル)でナイと銭儲けは出来やしない。北朝鮮をとりあえず脅威ってことにしておいて、そのまま、のさばらせといて、あんな国家、中国の一存でどうにでもなるのに、六カ国会議だのなんだのと、まあ。だいたい韓国のほうが、日本よりも、北朝鮮に対しては、さほど脅威だと思ってナイから、つまり、アメリカをうまく使ってるから(日本は、うまく使われてんだけど)、ここもまた、うまいこと経済成長してやがんの、な。円高に介入ったって、ドル買いだろ。ここでもまた、アメリカのケツ拭いてるのは日本だなあ。買わずに売ればどうなの。日本の最先端技術を、このさい、秘匿しておかないで、売っちまうのよ。もちろん、クギ抜いて。で、買った国が、量産し始めた頃には、次の先端技術を開発しちまうの。日本は量産なんてしなくていいのよ。技術開発だけに勤しんでいればいいの。そういう国民なんだから。雇用雇用、そう、技術のあるのは、みんな雇用しちまえ。100万が1000万でも。将来10億で売れるぜ。鬱病自殺者の、経済損益が年間1兆円を突破してるって、びっくりしたな。つまり、鬱病になるのは、みんな真面目で研究熱心で、責任感の強いのだから、要するに重要な人材なのよ。それが、経済損益に出てきてるんだな。1兆四千万だかはすげえな。ドル買いの国家予算の半分じゃん。おい、鬱病患者をもっとだいじにしろ。ああ、なんか、オレも、秋口になって、また再発しそうで、びくびくだぁ。

独り言

なにごとも、過ぎ去ってしまえば徒労にすぎぬ。というか、徒労にすぎぬと気づくのは、いつも過ぎ去ってからだ。

2010年9月13日 (月)

一言居士

甘えない。心地よく、際限がなく、かつ気付かない。結果に於いて、他者も自らも怠落させること必定。ただし、理路あれば、甘えも方便。

2010年9月11日 (土)

本日のコトバ

選ぶこと、集めること、組み立てること、を、創作という。

2010年9月10日 (金)

かたこと

二人芝居のけいこ。身体疲労は腰痛以外ほとんどナイが、きわめて、頭を使う。役者というのは、こんなに脳を酷使してんのかね。今日から、饅頭でも持っていくかな。

2010年9月 9日 (木)

再度小悟を得る

愛のあかしもナイ 明石焼きならアル その程度のものだ

2010年9月 7日 (火)

new! 新着情報: 「2010演劇camp in 中津川」…(2010.0920終了)

new! ■ 北村 想がセミナー講師で参加…(2010.0920終了)

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今年で二年目を迎える演劇camp in 中津川。昨年、「おいでんサロン亭主」として参加した北村想が、今年は「演出家俳優養成セミナー」の講師をつとめます。セミナーのお申込についての詳細は下記をご覧下さい。

【日程】2010年9月17日(金) ~ 2010年9月20日(月)

【会場】岐阜県中津川市

【タイトル】北村想の「演出家俳優養成セミナー」 レクチャー+観劇コース

【公式ホームページ】 お申込はこちらから→ ●2010演劇camp in 中津川● 

旅寝の空の下小悟を得る

愛というものはない 愛のあかししかないのだ

2010年9月 6日 (月)

カイトウリツ

宣伝カーから 日本を救うのは私です という声が聞こえてくる

ああそうか 今年の猛暑の原因は その声か と 窓を閉める

カラダのあちこちの いろんな 痛みをあまり気にしなくなったので

歳をとるのも まんざら 悪いことではナイ

どれだけの問題が用意され 残されているのか 俺は知らないが

全問 解いた者など どこにもどの時代にも いないことだけは 知っている

釈迦も達磨もイエスもアッラーも 歴代の名だたる偉人哲人の誰もかれも

ドーナツ屋の女子店員も 隣の八百屋のだんなも 整形外科外来の婆さんも

カイトウリツは 俺と そんなにかわらない

たぶん 俺も ある分野の 幾つかは正しい答を出したと思うのだが

それを理解されるのは まだ20年は先のことだ

そのころ 俺は もう生きてはいないだろう

明日 今夜 俺は生きているか それすら俺の決めることではナイのだから

あれかこれかというカントから あれもこれもというヘーゲルまで

そうして あれでもこれでもないという 量子力学から

どれであってもしょうがねえ と寝ころんでいる俺までも

カイトウリツは似たようなもんだ   

全知全能の創造主なるものは 論理的に当然 無知蒙昧も含まねばならない

だから 間違わ(ねば)ならないというのは 摂理だ 

よって 解答が この世界の中にあるにせよ 外にあるにせよ

いずれ カイトウリツは カワラナイのだ

テレビのクイズバラエティのように ワカルものだけに答えていればいいワケではナイが

ワカラナイということも オモシロイものだと ほくそ笑むことができるのは

あるいは 半世紀以上を生きた 智恵かも知れない

世界はミステリと演劇で記述することが出来る が

それらは 創りものだから

「何で」「どんなふうに」創られているのかを 知るのが オモシロイのだ

疫病の自室から 熱病の巷へ 今日も ワカラナイひとがいく

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本日より、主筆、またしばし、旅寝の空です。ただならぬ夏、読者諸賢、ご自愛を。

2010年9月 5日 (日)

かくて船は行く

異常気象だろうが、天変地異だろうが、人間からみた地球の律動であって、CO2が増えているといったって、地球内にある二酸化炭素の総量は決まっているのだから、温暖化とはいえ、これも地球の熱量は地球が生じたときから増減はナイことなど、熱エネルギーの第一法則でワカッテいることだ。そうジタバタしても始まらない。・・・受信料を支払っているので、久しぶりに公共放送を観た。テレビ囲碁だ。対戦は、武宮センセイと、依田センセイ。武宮センセイの白番で、めずらしくタスキで始まったが、中央重視の碁は変わっていない。依田センセイはたしか、藤原秀行センセイの弟子すじだから厚い碁で、これはオモシロイ組み合わせだ。中央重視の宇宙流は、どうしても空中戦になる。だから、ゆるやかにみえて(武宮センセイ曰く自然流)なのだが、ほんとは激しい碁になる場合が多い。いつだったかの棋聖戦で、棋聖趙治勲に対して、武宮センセイは挑戦者として4勝3敗で敗れたものの、あの作家ムツゴロウさん(このひと、麻雀も囲碁も強い)をして「久しぶりに盤面から血が流れる闘いをみた」といわしめたほどで、中央に打ち込んだ趙の石を殺してしまっての勝利が一局あった。敗れたとはいえ、当時全盛で、グランド・スラムを達成した趙センセイに三勝したのはスゴイ。で、本日は、10目半で負け。ふつう、プロの囲碁は、5目以上の負けがワカルと、途中で投げる。それでも武宮センセイ、今日も面白かった。ふつうはプロはまず打たないだろうってな打ち方をして、要するに、これでいっちょどうだと、楽しんでるんだなあ。明らかに途中までは白優勢だったが、大ヨセから引っくり返されてしまった。故人の相米慎二監督も、武宮流が好きで(かつゴルフ友達で)「秀行先生もスゴイが、やはり、武宮だ。なにしろ、彼は、囲碁の概念を変えたからな」と、いつだったか、呑んだときに熱く語ってたなあ。その相米さんも映画の概念を引っくり返している。私も、演劇(戯曲)の概念を多少は引っくり返したつもりなんだけど、まったく業界は、無視だ。べつにどうでもいいんだけど。だいたいが、ワカンナイんだから。・・・劇団を終えてからこっちは、好きなように書けるので、ほんとにもう引っくり返しの連続で、劇団のときには出来なかった、自分でオモシロク納得のいく戯曲を書いている。申し訳ないが、楽しんでいるワケだ。劇団のときは、集客動員のためにパブリを考えて、特に好きでもナイ宮沢賢治なんてのを、やってたけど、やる以上は学習しなくちゃなんないので、それはやったんだが、そうすると、宮沢賢治というのは、かなり誤解さているということもワカッタ。マルクスは労働者を読み間違ったが、宮沢賢治は農民を読み間違った。もし、宮沢賢治が、農民革命など志向しないで、東京で革命なんざを考えていたとしたら、当局にとっては最も恐ろしい革命家になっていたに違いない。『グスコーブドリの伝記』なんざ、ありゃ、革命の話ですよ。・・・タイトルは何気なくつけた。雷が鳴っている。夕立なら、雨にうたれたいところだ。

映画感想『BECK』

公開初日。であるのに、大津のシネコンの最も大きなスクリーン(400名収容)には、10人ほどしか観客がいない。18時45分という上映時間のせいですかね。まるで、この映画の内容そのままだ。・・・さて、144分のこの青春ロック映画、ふつう、映画は1スジ・2ヌケ(ヌキ)・3ドウサといわれるのですが(スジは脚本、ヌケは演出・・映像、ドウサは役者・・演技)わたくしでも、スジなら書ける程度のものだ。ハロルド作石の劇画が原作なので、4~5回改稿すれば、なんとかなるでしょ。しかし、ヌケはそうはいかない。映像演出もてがける堤(天才)幸彦監督は、こともあろうに、最も重要であるバンドボーカルのボーカルの歌声を、まんま、三度にわたって、映像イメージでみせてしまうのだ。こりゃ「観音さま(音を観る)」だ。ふつう、これをやると、うまく逃げたなとか、狡いとか、けしていい評価は出ないのだが、ここがおそらくこの映画の勝負のしどころ、監督としての、命のかけどころ、であったのは間違いなく、私は、この聞こえない歌声を映像イメージと、バンド仲間の表情、観客の視線などから否応なく想像させられて、胸が詰まり、嗚呼、落涙。よかった、演劇やってて。映画なんてやってたら、まず追いつけないだろうからな。(演劇では、私がかなわない、追いつけないと判断しているのは「維新派」だけだから)。堤監督は、撮りながら、同時に編集作業もやっていくらしいのだが、これがまあ、飄々と意表をついて、やられてみると、それしかナイてなカメラワーク(映像)が飛び込んでくる。・・・さて、キツネ小学校のみなさん、今日は、みなさんのココロに留め置くタイセツなことがあります。それは、出演者が、みんな、主要メンバーはもとより、どんな隅っこに映っているひとも、みいんな、いい顔をしていたことです。いい顔というのは、思い出になる顔のことです。・・・これは舞台の演出をするときも、私自身、最も心配りしていることなのだが、そうはうまくいかない。いやあ、しかし、まいりましたね。堤監督は、『恋愛写真』にせよ『さよなら日本』にせよ、そういうマイナーな作品を名作にしちゃうんだけど、そういうのに限って、観てるひと少ないのよね。で、『20世紀少年』なんて、撮ってもいない(らしいぞ。ほとんど、クレジットだけみたい)で酷評されてねえ(観てねえけど)。この映画のラストシーンのように、映画館の観客席がどんどん埋まっていくことを期待してますわ。

2010年9月 3日 (金)

生殖の傷み

いわゆる成人コミック(エロ漫画)では、町田ひらく、しか読まない。多く読んでいるほうではナイが、この作者の傾向は一定している。初潮を迎える前の少女が、侵されるというパターン以外には殆どナイ。茜新社の『たんぽぽのまつり』シリーズは、主色の出来で、扱っているのは、共同幻想と、その贄としての少女の祀りだ。少女を犯すのは、老人であり、およそこの組み合わせは、現代(いま)の時代のある象徴だ。他の作品群でもそうだが、町田氏の作品には独特の痛々しさと哀しさがある。しかし、もとより、生殖行為というものは、痛々しいものであり、悲哀だ。処女膜がなにゆえ人間に残っているのかは知らないが、傷みと出血をともなうというのは、生殖行為というものが、生物が生きる(存続する)ことにおいての、進化の連鎖の激しい、痛苦の考古学だ。書店に平積みされている人生論やら、成功術やら、宗教のコトバやら、哲学の訓辞の類が、殆ど用をなさないのは、人間が「生物」としての自然の生命体であるからに他ならない。なにをどうコトバにしようと、人間は、どうしても生物としての自然の生命体だ。斬られりゃ痛いし、自身の命を本能的(というコトバもインチキ臭いが)に守ろうとする。それは、自己免疫の細菌、ウイルスに対する闘いでも充分に理解できる。bacteriaと闘うために発熱している身体に対して「心頭滅却すれば・・・」などといってもアホラシイだけだ。難病とはいうが、難病でナイ疾病など存在しない。それ以外は、疾病ではなく、単なる症状というべきだ。海から陸への生物進化の必要が、生殖にあったのか、海から陸へと進化する過程においての試行錯誤が生殖を変えていったのかはワカラナイが、いずれにしても、生殖行為(生命存続)のためであったとしかいいようがナイ。聖戦がどうとか、罪の許しがどうとか、極楽往生がどうとか、現世御利益がどうとか、正義も悪もへったくれもねえ。人類の歴史に在るのは、生殖の傷みと悲哀だけだ。そのオマケやご褒美に快楽悦楽欲望がついてなければ、人類は、数億年前に滅亡していることだろう。

ルバイヤート

太宰治の著作権がきれたので、ちょうど、宮沢賢治のときのように、関をきって、雪崩のように、出るわ出るわ、コミックから映画まで。やっぱピカレスクなのかなあ。かつて、とある有名劇作家の愛人やってた女優がいったね。「私は悪人のほうが好き。だって、悪人のほうが断然、魅力があるもの」んで、その後、結婚されたのは善人だったのか悪人だったのか、おらは知らない。・・・しかし、古屋兎丸の『人間失格』には、脱帽です。このひとのコミック、以前、何か読んで、そのときも驚いたんだけど、さすが新潮社(太宰の最たる版元)、たぶん、脚色がみごとだから、編集者もいいのだと思われる。2巻までだが、『ルバイヤート』を持ち出したのにまた仰天。太宰を読んだのは40年前だから、記憶がさだかでないので、原作に出てきたかどうか。太宰は、「相対化」もしくは「対象化」するのに時間もかかる。そう出来なくて終わるひともいる。ともかくも、短編は、海外文学ですら、追随をゆるさない。ところで『ルバイヤート』、古屋さんのには、「ままよ、どうあろうと」の(84)が使われていて、

恋する者と酒のみは地獄に行くと言う、

根も葉もない戯言にしかすぎぬ。

恋する者や酒のみが地獄に落ちたら、

天国は人影もなくさびれよう!

である。ちなみに、「解き得ぬ謎」から、かましてくれるぞ。(2)と(3)をみてみよう。

(2)

もともと無理やりつれ出された世界なんだ、

生きてなやみのほか得るところ何があったか?

今は、何のために来たり住みそして去るのやら

わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!

(3)

自分が来て宇宙になんの変化があったか?

また行けばとて格別変化があったか?

いったい何のためにこうして来たり去るのか、

この耳に説きあかしてくれた人があったか?

しかし、古屋兎丸さんの『人間失格』は、ちょっと女性がステロタイプ過ぎます。そのあたりだけは不満。脚色は、いいのよ。

2010年9月 1日 (水)

感想『踊る大捜査線・movie・3』

興行的にもふるわず、レビューを読んでもさほどのことはナイ3作目なのだが、観終わったのち、あらためて☆1つから4つあたりのレビューを読んで、レビューを書いた人々が、まったく映画のストーリーやプロットから、motivationまで、理解出来ていないのに、逆に暗澹たる思いにかられた。私は、この手の映画は、このあたりまで出来ていれば(『交渉人・真下正義』はすこぶるだったが)いいのではないかと思う。レビューの中には、主役の青島刑事が、セキュリティの鉄の防壁を木の標識で叩くのを、あんなもので防壁が破れるワケがナイなどと、極めてトンチンカンなことを大真面目に書いているものもあり、また、首謀者である小泉今日子演ずる犯人の仕組んだ事柄が(前半にもちろん展開されるのだが)、ややこしくてよくワカラナカッタ、などというペテンパーなものもあり、これでは、脚本が泣くというものだ。それもこれも、安直な垂れ流しのテレビ2時間ミステリ(もどき)ドラマのせいだろう。もちろん、プロの書き手からみれば、幾つかの注文はある。首謀者の小泉今日子までの引っ張り方の(いいかえれば、そこへ辿り着くまでが)緊張感が弱すぎる。というか、おい、またデジタル・パソコン犯罪かと、嫌気もさす。あれで、キャスティングに小泉今日子を持ってこなければ(movie・1と同じキャラなのだが)、この映画の成立は、かなり緩いものになっていたに違いない。そういう点でいえば、小泉今日子さまさまで、織田裕二とのタイマン・シーンでは、織田裕二のようなhamがどう転んでも勝ち目はナイ。この役者の決めせりふ(いわゆるクサイせりふ)にはまったく説得力がナイのだ。と、演出の点でいえば、小泉今日子を崇める群衆のヌキ方が、エキストラのみなさま然では、ため息が出る。基本的には、このシリーズは、ギャグ警察ものなのだから、シリアスな部分で、出来具合を判断してもしょうがナイ。☆三つでイイのではないか。

えらいもんダンチョネ

民主党が代表選とかで、盛り上がっているとき、テレビ・マスコミの街頭インタビューで一般庶民大衆は、マスコミが流布しているのと寸分変わらぬ応答をして(いるように編集されているのだけれど)、とはいえ、また今日も円高で、株は230円以上下がって、いやはやほんとはタイヘンなんだろうけど、それでも、一尾380円という秋刀魚でも食ってやろうかと、こういうときには、秋刀魚ですら不漁になり、その代わりに米の作況指数は104だかだけど、農家は、安値で販売を迫られており、ナニをどうすれば、生活が楽になるのかワカラヌまま、しかしながら、樂になるというのはどういうことなのかと、考えることなどとおに忘れ、観測以来の記録的猛暑の続く中で、渇水はあるのかないのか、今年はまったく報道されもせず、これまた電力会社も、電力がピークを上回っているので節電をなんていおうものなら、クーラーつけずに熱中症で死なれるから、口を閉ざし、・・・だが、活きていくんだから、人間はけっこうしぶといんじゃないのか。国家政治のヘッドに誰がなろうと、どうでもイイことで、いよいよ一般庶民大衆は、政治なんてのは百害あって一利なしではないかと気づき始め、ああ、イチバンたいせつなことは、けっきょく、ナンであるのかと、ふと、ふとではあるが、疑問符を一つ、傾げる首の頭の上に立てるようになっている。苦境あればこそ、苦しいときこそ、ひとは、それに抗して考え、工夫するものなのだ。ともかく、日本が終わるなら有終の美だ。見苦しく、略奪やら殺し合いなんてやって死ぬのはよそうよ。100歳以上の老人の如く、人知れず消えゆくのみだ。これまた、ひとつの今年の象徴ではナイか。

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