革命について
スピノザの神学や、道元の哲学からは、「革命」というものはやってくることが出来ない。それはこの欄でも記したように、この宇宙全てが神なり仏だからだ。『西遊記』を読んだひとなら誰しも疑問に思うのが、孫悟空のキント雲があれば、天竺までひとッ飛びなんじゃなかろうかという、実に真っ当なギモンだ。しかし、キント雲は、天竺方向には飛べないアイテムなのだ。このキント雲を使って、孫悟空とお釈迦さまが、賭けのようなものをしたプロットがある。お釈迦さまは、「汝、我が手のひらから、飛び出してみよ」といい、孫悟空は「お安いご用だ」とばかりにキント雲に乗って、ずいぶん飛んだところに、五本の柱がそそり立っている。どうやら、これが空の果てかと、そこに筆で書き置きし、小便をひっかけて帰ろうと思うと、これが、お釈迦さまの手のひらの中という、あれだ。スピノザや道元の世界・宇宙はかくの如しだ。しかし、スピノザは、カトリックからは、異端とされている。カトリックにとっては「神と人間とが同じである」では困るからだ。従って、悪魔というものが創造される可能性のを残す。Satanというのはヘブライ語で「敵」という意味だ。もともとは天使だから、堕天使で、ルシフェルという。これが、天国北部の天軍の司令官だった。神に叛乱したのは、何も一天使だけではナイ。叛乱軍とあるからには、大勢だ。その先陣がルシフェル(Satan)だ。ミルトンによると、Satanの背丈は四万フィートだという(1フィートは30,5㎝)。ともかくも、「革命」というのは悪魔から初まったのだ。だから「敵」というよりも「革命家」と呼ぶに相応しい。聖書解釈では、創世記に人間を創造したときの神のコトバは「私たちに似せて・・・」であって、この「たち」というのが、いったいナニを示すのか議論されたことがあった。けっきょく、神は唯一の存在なので、天使たちということに落ち着いたようだが、最初のSatanたち天使叛乱軍と闘ったのが、大天使ミカエルだ。闘いに敗れたSatanは、地獄の最下層で半身氷づけになっているという話もあれば、神から七千年の余裕を与えられて「神なくして、ひとがひとを統べることが出来るかやってみよ」というワケで、いま、せっせとその最中だという話もある。また、ハルマゲドンの地で、最終戦争が行われるということにもなっている。これは新約の『黙示録』だが、ひでえのは、この戦争で、巻き添えをくうのは人間だということだ。叛乱天使軍でもなく、神軍天使でもなく、そのいずれにも加担しないで、ただただ地上の任務についている天使もあるが、さすがに地上任務の天使だけあって、叛乱天使軍には同情的だ。とはいえ、sympathizerあたりがせいぜいで、じっと自分の無力を疎んじながら、それでも、ちょっと人間に手を貸したりすると、天使特有の波動というものによって、そのひとの人生を狂わせることがあるのだから、ますます自責の念は重く、いっそ堕天使にでもなっちまって、革命のひとつもやってみるかな、と、夢想しながら、三つ葉のおひたしなんかを食っているのだ。
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