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2010年8月31日 (火)

ライプニッツの神と、演技と

『ハイ・イメージ論Ⅱ』(吉本隆明・福武書店)の「自然論」から、ライプニッツの神学を考察する、ある部分を抜き出してみる。(ここはずいぶんと興味をひくところだからだ)。「なぜ自然の事象はいまあるように実在して、別様に実在していないのか、そのわけをかんがえてみる。そのわけはそこにある実在の物体にも、精神のなかの物体の表象にもみつけることができない」・・・ここで、著者は、唯物論者にも、またヘーゲル流の観念論者にも釘を打ち込んでいる、とみていい。しかし、私たちが興味をもつべきは、このアトの考察だ。「物体はそれじたいでは運動にも静止にも無関心(イナート)だから、運動を起こしている事象の根拠をその物体には求められない。物体が現にやっている運動は、以前の運動の継続だから以前の運動に原因があり、以前の運動はそのまた以前の運動からやってきたもので、どこまで遡っても、なぜ運動する事象がこのようであって、別様でないのかは、わからないままだ。だとすればひとつの事象のありさまがそうであるわけ、しかもほかのわけがいらない十分なわけは、このたまたまおこっている事象の系列の「外(原文太字)」になければならない」・・・私たちはいつものごとく、この「物体」を「演者」に置換し、「運動」を「演技」と置き換えることにする。その置き換えが可能なワケは、演じることの経験者なら実際に体験していることだが、演者が、演技をもって、何か(この場合は「役」になるが)を演技している場合、その「演技」はまさに「運動」と呼ぶにも似て、あたかも、意思するままに動いているのではなく、ごく「自然」に、まるで「自身の系列の[外]からの力」で動いているように感じてしまうことが数多あるからだ。この現象は、ほんとうなら「稽古論」として、論じられるべきものだ。「なぜ、芝居というものは何度も同じ稽古を繰り返すのか」という問いかけに論理的に答えられる演劇やワークショップの指導者がどれだけいるのか、それぞれの指導者にこの問いをぶつけてみたいものだが(暑いのと、眼のピント調整の老化で、目前の字がぼやけて、鬱陶しいから、気分も鬱陶しくなって、そんなことをいうだけですわ)、キェルケゴーやハイデガーの実存主義哲学の解釈でいえば、その現象は[反復]という概念でとらえられ、マルクスなどの唯物論弁証法でいえば[量質転化]で述べられるものだ。もちろん、ライプニッツが考えたように、事象の運動を動かすものが、それじたいの系列の外からやってくるということは、演技という運動の力がけして外からやってきているものではナイのと同様、ありえないものだが、私たちが考えるべきは、それがあたかも[外]からの力のように、あるいは、自身の意思ではないかのように「身体」が動いてしまうと感じることへの人間の「自然」だ。ここでいう「自然」とは、三流演出家の呪文のようなコトバ「もっと自然にやって」の自然と同じ自然だ。「成すがまま」「ありのまま」という、偉い宗教者のオコトバに最もよくみうけられるものと同意だ。王道をひた走っているecologyとは何の関係もナイ。少なくとも、この時点でいえることは、「稽古」というのは、不自然なものを自然なものへと回帰させる営為であり、そう考えると、人間という自然は不自然なものであるとするのが正しい観方であり、それが(稽古過程を経て)自然なものになったとき、あたかも、自らの力以外の力(誤解をおそれずにいうなら、自身以外の環界的自然)に外的自然(身体)が操られているような感覚を受けるという、「受動的体験」とでも称すべき体験をするということになる。

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