緒言
ほんとうは、演劇について語ろうとするならば、何を緒言にするか選んでいてはいけナイ。つまり、ナニからでも始められなければならない。その理由(こころ)はと問えば、演劇は、なんでもありだからだ。昨日の塾(マスターコース)では、「書かれた劇」としての戯曲と「演じられた劇」としての演劇が双方向性のものではナイという、アクロバットな論理で、戯曲はプロセスとして演劇に組み入れられるものではナイことの証明を、プラトン、アリストテレスに始まる「哲学」を擁して、カント、ヘーゲルの、「意識と対象」の関係から、フッサールの現象学的独我論と、マルクスの疎外概念、と、めくるめくハッタリを弄しつつ、塾生をだまくらかしてみたが、私塾のビギナーコースの卒塾生が、そのままマスターコースに応募合格して学んででいるのが多く、彼らは、いつものことと何気なく、それ以外の者が、男女、一人ずつで、この者は、多少唖然に呆感としていたようだが、卒塾生の一人が「びっくりしたでしょ。でも、私たちは以前の塾で慣れてんのよ。ああいうレクチャーしか受けてないから」と、慰めだか、労いだかを、その初体験者に述べると、「はい、驚きました」とこれまた素直に、受け取っていたようで、というか、感心関心のようで、こちとらにしてみれば、どのみち、釈迦もキリストも半ばは口から出まかせいってたに相違ないなどと、舐めてるから、(まだ舐め不足なくらいなのだが)それでも、二時間のレクチャー時間に、そうだ、ヘーゲルの意識と対象の関係を幾何学で説明しようとしていたんだとか、途中で体力つきてきて、肝腎の、戯曲と演じられる劇の「関係は空間性」「了解は時間性」として、架橋されることによって、成立しているという部分が説ききれなかったなと、反省くらいはしている。そのアトの飲み会(マスターコースだけは、年に一度だから、やるんだけど)では、「俺は、今日、ホテル泊まりだけど、ツインの部屋だけど、酔ったふりして、夜這いしないように」と、意味深なことをいっただけで、演劇の話なんざ、まったくナシ。で、夜這いもナシ。疲れ切っていて、ビール一缶で、バッタリ。舐め不足だなあ。
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