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2010年8月27日 (金)

映画感想『ベストキッド゙゙』

リメイクだが、かつ、140分という長尺だが、よく出来ている。公開されてからだいぶたつので、レビューもいろいろと出揃っているが、中には、「いつもながらの代わり映えしない、ステロタイプな」という評も多数ある。そんなことは、観る前にワカッテいることなので、これに類似することを述べているアホは、もう映画なんぞ觀ないでイイ。たとえば、「いい女」がいるとして、「いつもながらの代わり映えしない、いい女」だから、アカンというアホがいるか。たとえば、masturbationして、「いつもながらの代わり映えしない快感でしかナイ」というアホがいるのか。そういアホと同類だといいたいだけだ。・・・この映画の良さは2点ある。もちろん、アホにはワカランことだから、「そんなことがですかあ」と、アホ面みせて読んでいればイイ。この映画のstoryは、のっけからラストシーンまで、ワカルようになっていることは、鑑賞者が殆ど知っていることだ。従って、監督(ハラルド・ズワルド)の勝負所は、そのplot(如何にみせるか)ということにかかっている。その要点をこの監督は、外していないのだ。これは、賞賛に値する。それと、これは脚本家の業績でもあるのだろうが、カンフーについて、ハン(ジャッキー・チェン)に、その「理」を語らせるとき、ドレ(ジュイデン・スミス)の鍛練に用いた、上着を着る→脱ぐ→引っかける→取って落とす→拾って着る、という実に単純な動作において、悟らせたことだ。それは、観客にもまたよく納得出来るものだった。私たちのように演劇の途上にある者にとっても、ここは実に興味深いところで、「カンフーも日常の中にあるものだ」というハンのコトバに、私などは、おもわず落涙してしまった。そういう涙の意味は、武道でも、danceでも、演劇でも、そういう鍛練の途を選んだ者にしかワカラナイものだ。昨今のワークショップやら、お勉強やら、習い事の演劇では、そこんところがまったく欠落しているのだ。狂言役者が、同じせれふを、喉から血を吐き、汗だくになるまでやってのち、あの飄々とした演技に辿り着くことなど、誰が知ろう。・・・もうひとつ、印象に残ったのは、ハン役のジャッキー・チェンの後ろ姿の演技だ。この映画では、普段の数倍、ジャッキー・チェンは、後ろ姿を演じている。そういうことも、プロでしか気づかないことなのだが、後ろ姿を演じるという演技は、たやすいことではナイ。古くは高倉健さんや池部良さん、亡くなられたが、藤田まことさんの『必殺』シリーズでしかみられなかった。私のような(今度二人芝居で役者に再挑戦するからいえるのだが)下手くそには、舞台に立って、いつも不安になるのは、背中に集まる観客の視線だ。なにしろ、「背負わなくてはならない」から。だから、常に神経を尖らせて演技しているのは、背中なのだが、これが、なかなかうまくいかない。表情など、どうにでも創れるが、背中は、そうはいかない。その謂いでいけば、落語家など、名人クラスになると、背中をみせているワケではナイのに、ちゃんと背中がみえているのだ。こういうことも、アホにはワカランことだ。・・・付け足しでいえば、「気」というのを、明確に「エネルギーのことだ」といわせたのは、いままでの俗流この手の映画ではなかったことだ。

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