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2010年8月 7日 (土)

限界と制限

スピノザの神学(『エチカ』)の「基本姿勢」(あるいは絶対世界といってもいいが)は[神即自然]だ。ここからアインシュタインは量子力学のコペンハーゲン派解釈に対して~神はサイコロをふらない~と、それ否定した。[神即自然]という概念に最も近いものを日本の仏教哲学に求めると、曹洞宗始祖道元の「一切衆生 悉有仏性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)『正法眼蔵』」になる。いい方をかえれば、こっちは[仏即自然]だ。「悉有」は「全存在・全世界・全宇宙」のことだからだ。そこで、道元は、この世界がすべて仏性であるのなら、修行の意味(何のために修行をするのか)という疑問を解くために中国に渡った。その答はまことに単純なもので、しかし、なるほどというところがある。簡単にいってしまうと、「悟り」というのは悟ろうとして悟るものではナイ、悟りのほうからやって来るもので、修行は、そのための方法ではナイ、もし、そうだとすれば、悟ろうとすること自体が欲望になるからで、修行はそれ自体がすでに悟りなのだ。なぜなら、修行とは、悟りを受け入れることだからだ。と、まあ、これでも頭がクルクルしそうだが、「悉有」であるならば、つまり全宇宙の事物が仏性であるならば、それに気づくこと、それを受け入れることが修行であり、悟りだ、という論理だ。悩んでいるときは、その悩みが悟りだし、苦しいときはその苦しさが仏性そのものだという論法だ。これは、容器と水というたとえにすると、もう少しワカル。私は演劇を学ぶものに、レクチャーするとき、あなたという「容器」の中に演劇という「水」を入れるのか、演劇という「容器」の中にあなたという「水」を入れるのか、かんがえるようにいう。もちろん、私自身は前者で、私という「容器」の中に、演劇という「水」を入れただけだ。奇しき偶然というもので、道元の修行の説き方も同じく、仏性というものは、修行するものの中に入ってくるものだ、という考え方、哲学だ。というよりも、本来が、人間(衆生)たるや仏性を持つのだから、それに気づけばイイだけのことなのだ。これを、わりに流布されているコトバでいうと「受け入れる」ということになる。健康だけがイイことなのではない。病んでいるときは、病むことに仏性を見出すこと、貧困のときは、貧困の中に仏性を受け入れること、というワケだが、なるほど、これはたしかによく出来ていて、たとえば『般若心経』などは、結果的には、この宇宙は「智恵」であると、智恵が考えているだけだという解釈になる。「生死の中に仏なければ生死にまどわず」という『生死』についての教えも簡略で、「迷いを悟りによって超越しようなどと考えなければ、迷うことはない」という逆説めいたものだ。・・・しかし、ほんとにそうなんだろうか。私のような凡夫、衆生、有情は、こういってしまう。「はい、たしかに仰せのとおり、理屈では納得、理解いたしました。よおくワカリました。そのとおりだと思います。しかしながら、やっぱり、しんどいときは死にたくなりますし、ひとを恨みますし、悔いては泣きますし、教えのことなんか吹っ飛んでしまうのです。仏性にありてさへ、何故に、かくも安穏せず、煩悩が残るのでしょうか」「また、[受け入れよ]とおっしゃっても、やっぱり、現在のアフリカの難民の子どもたちの悲惨さや、かつてのナチスの残虐行為や、ポル・ポト政権のやったことなど、どうしても受け入れられません」・・・道元の仏教哲学はスピノザの神学より、すぐれたもののような気がするが、そこにはやはり、「哲学としての制限」あるいは、自力本願としての禅宗の制限、が存在するように思われる。それは限界というものではナイとしても(つまり修行が未熟なために未完成のものであるとしても)、実生活の現実においては、そうはうまくいかないよ、という気がするのだ。ただし、これは「制限」であるから、実生活の制限内においては、真理として受け取ってもかまわないと思うけれど。

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