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2010年8月 7日 (土)

私はウソつきだが、嘘はキライだ

70年代の演劇シーンの一つに、なんだか演劇が「革命」に加担出来るのではないかという妄想(あるいは根拠なき確信)があって、そのての演劇も名古屋でやられていたようだが、たとえば、ある劇団(だか、集団だか、ようワカランかったけど)の演出家などは、私たちも芝居をやってる小屋の外のベンチで、ショーペンハウエルの文庫などを開いてらっしゃったり、当時のうちの劇団員にいわせると、「俺たちはさ、どこかにイイ女いねえかなって顔して、町歩くでしょ、でも、あの演出家さんは、ここにイイ男がいるぞって顔しながら歩くんだよね」であったが、ちょいと、その稽古風景を覗かせてもらうと、その演出家は演者たちに「僕の中では、演出プランは最後まで出来上がっているので、僕を信じてやって下さい」なんていうてる。私たちは、「演出プラン」というのが何なのか知らなかったから、浅草の「電気ブラン」を連想したりしていたのだ。・・・さて、生活(おもに男と女のナニ)と、表現(思想)と、さらに経済があるとき、どうしても、人間というのは三つのうちのどれかで嘘をつかねばならぬと、これが名古屋40年の輝かしき教訓なのだが、ご多分にもれず、私もどこかのどれかで嘘をついてきた。従って、ウソつきなのだが、嘘はキライだから、基本的には、私は私がキライだという論理になる。これがワカリにくければ、ウディ・アレンの名文句「僕は僕の行くようなレストランには、行きたくないね」がある。・・・明日は、桃園会のトーク・ゲストで、三時間の芝居のアト、観客は、もう帰りたいに決まっているし、最終日の最後なので、劇団員やスタッフは、早くバラして飲みたいのに決まっているし、そんなところで、ナニを話せばいいのか、如何にテキヤ(芸者でもイイんだけど)をやるのか、ほとほとプレッシャーなのだが、作者の三好十郎は、自らの「闘い」について、あるパルチザンの老兵士を例に出して、「彼にとって戦いは、すでに戦いではなく生活それ自体」であると、いうてはる。「自分が生きていること自体が抵抗なのだ」というてはる。そうして、そうなるには、「死に切れる仕事をすることです」というてはる。他は棄ててもエエ。原稿が売れなくなったら、自身でガリ版で刷る。それがダメなら紙芝居屋をやる。それでもダメなら乞食になる。というてはる。私もそのつもりで、目標は畏友であった故人クラモチくんの生きた62際までをなんとか、とりあえずは、なんとか、従って、私は、もうこれからの面倒はみられないなと、妻には三行半を強要して、出来るだけ、あるだけの財は持っていってもらうのが、精一杯のことだったから、ここにはウソはナイ。逆に、今後、私が宝くじに当たって3億円儲けて、100歳まで生きようが、それはそれで、知らん。明日のことはワカランというたら、これまた畏友の、まだ生きてる大阪のK氏が、「わしは今日のこともワカラン」と、いうてはったが、なるほど、そのとおりだと思う。かつて母親(いま同居)が『暮らしの手帖』という雑誌を定期購読していたが、『その日暮らしの手帖』があれば、そっちのほうが売れるだろう。私がイチバン棄てたいのは私自身なのだが、そうは問屋の白袴。紺屋が卸さない。下手に棄てようとすると自棄(ヤケ)になるだけ、とオチがついた。

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