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2010年8月 9日 (月)

自己と自我のチガイについて

いっとき、いや、いまでも、「自己表現」というコトバが流布、流行したが、そうして、まるで演劇という表現形態が、まるでその代表のように喧伝されたりしたが、そのため、自己開発セミナーと同類のように誤解されて、ワークショップを受講する者もあったようだが(現在形でいえば、いるようだが)これは、受講生だけの問題ではなく、レクチャーする講師のインチキにも関わってくる問題なのだ。ここから、演劇はコミュニケーションの手段、方法であるという、ある「教育理念」が提唱され、実に、教育産業から、文化行政にまで包括されていくという現象を生じている。本質的にいえば、「自己」を表現するということは不可能なことだ。これは量子力学で、量子の位置と運動量(速度と向き)を同時に求めるのが不可能なのと同様だ。だから、私たちは、その表現の手段に、絵画、音楽、文学、演劇、舞踏・・・et ceteraを用いなければならないのだ。自我というのは、「対他的」なものだ。他者との比較が主なる概念だ。よってegoismと称される。自己というのは「即自的」なものだ。ここには、他者の問題はまったく関係がナイ。いうなれば「他者はどうあれ」だ。あんまり理屈っぽくなると、また、難しいと思われるので、「自己」から表出されるものを、表現するprocessを、野球のピッチャーの動向で解説してみる。投手は、打者に対して、どんな球を投げるかを「脳」で考える。カーブかスライダーか、直球か、またコース・コントロールをどうするか。これを投げるのは、投手の技量だ。ただ、これだけなら、computer搭載のpitching machineでも可能だ。しかし、そこに生ずる、どういうふうにスライダーが、どのコースで、どの速さで投げられて、打者がどうスイングするかという心象(像、image)は、ココロの仕事だ。これを「自己」の表出という。(打者は投げるということにおいての他者ではナイ。打者はあくまで打つ者だから)ここには自我など微塵も入り込まない。演劇において、演者の演技は、自己の表出を演技という体現によって表現することであるから、自我とはまったく関係がナイ。しかし、コミュニケーションは違う。ここには多分に自我の入り込む余地がある。communicationの学習や訓練に、演劇のワークショップを用いるのは、この辺りを論理づけておかないと、幼稚園のお遊戯と大差なくなる結果になる。もっとも、自己の表出をいくら表現すべく努めても、投手の思い通りに球が飛んでいくとは限らないのと同様、そううまくはいかない。もちろん、うまくいかないから、投手は投げる鍛練をし、表現者は、それぞれの表現に対しての研鑽をするのだ。

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