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2010年8月 9日 (月)

義について

「義」というのはふつう「人がひととして成さねばならぬこと」として用いられるが、この「義」というコトバが教典(聖書)の中で多くみられるキリスト教の「義」は、かなり異なる概念を持つ。聖書で用いられるのは専ら「神の義」だ。これと似たものを、日本の仏教思想に捜すと、親鸞の「他力本願」ということになる(中でも『悪人正機』はそれに最も近い)。つまり、キリスト教における「神の義」とは、救われないような者に対して働きかける神からの救い、だ。神はそれほど慈しみ深いということだ。ここから、「神の義」は「愛」と同義のコトバともなる。この「神の義」に対する「人の義」というものについても、その不条理さを親鸞は、キリスト教と同様にいっている。「義は義に感じて応じ、義の立場にあれば、その義がなんであれ、免罪されるなどということはナイ。そのように義を考える者は、ただ幸せ者としかいいようがナイ。義もまた不義と同様に、過酷なまでに、その骨の髄までを疑われ、かつ問責されるものだ。どんなに疑われ、問責されようが、それに耐えてなお、自身の場に立つことが出来るならば、初めて、弥陀の救済に触れることが出来る」、つまり、義をもって生きていても、そんなものは、不義と、あんまりかわらないヨ、と親鸞はいうのだ。自らが正しいからといって、免罪の根拠などにはならないヨ、と。義など、何の支えにもならないヨ、と。やっぱり、なんだかんだといわれるし、ほんとかどうかあやしいもんだといわれるヨ、と。人の義なんてその程度だヨ、と。ひとは、なんとか正しく生きたいと考える。悪く生きたいと思うものもまた、要するに「うまく悪く生きたい」と考えているに過ぎない。しかし、人知など、知れたもので、「義」を見事なparadoxでいいきったのは、太宰の『父』だろう。「父はどこかで義によって遊んでいる」「義は悲しいものである」この作品は、冒頭から旧約聖書の引用で始まるが、この作品を「こんなの甘えだよ」ですまされそうな(そうして、そういう者に限って、どうやったら銭儲けが出来るかなんてことを企んでいるのだが)いまのご時世というのものからは、積極的に逃避するしかナイ。

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