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2010年8月 5日 (木)

どうでもイイのだ

母親が、毎日、鍼に通っているので、私もついでに腰と背筋の疲れをとるために二日にに一度同行する。健康保険がきくので、一回の診療費は450円(母親は150円)だから、まあそれなりの治療なのだが、こう暑くなると、診療時間の開始15分前に入っても、もう待合には数人、患者さんがいて、たいていはご老人(こっちも、それなりの年齢だけど)で、その会話を聞いていると、ソシュールのラングやバロールも、ウィトゲンシュタインの言語ゲームも、現象学の確信も、どこかの図書館の本棚に納まってしまう。要するに、コミュニケーションなど、伝わる確信や、伝わらない諦念や、そんなものはどうでもイイのだ。おおよそこの「どうでもイイ」という了解でしか、コミュニケーションはナイ。隣のひとに話しかけても、応答がナイときは、「あかんわ、聞こえてへんわ」で、オワリだし、その聞こえてなかったひとが、私が帽子で、パタパタやりだすと、団扇を差し出して「団扇、ありますよ」と勧めてくれたり、もはやそれは、条件反射と同じで、コトバ(コミュニケーション)に裏打ちなどはナイ。語り合っていることも、どうでもイイ話題なのだが、黙ってしまうと、暑さだけが残って、つまらないから、義理の兄の初盆がどうたらこうたらドーグラマーグラ、で、しかし、その年齢で腰痛の原因が、家庭内における老々介護で、高齢の寝たきりの父親をベッドから起こしたり寝かしたりがための原因だというのだから、ここんところ話題の100歳老人行方不明は、そうだな、100歳を過ぎたら、もう自主的姥捨てでイイのではないかと思う。この時代は、どう生きるかなど問題ではナイ。如何に死ぬかが問題なのだ。『葉隠』が読まれているのもそういう理由からだろう。

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