おコトバではありますが・9
パロールは、ソシュールの考えによれば、ラング(コトバの体系)に対するコトバの構造で、それは「話しコトバ」「語り」「会話」ということになる。なぜ「書きコトバ」ではないのかというと、ソシュールが、「書きコトバ」を動かしがたい[体系]と看做したからだ。(たとえば、辞書などを思い浮かべればイイ)。もう少しワカリヤスイ例を挙げておくと、仏教の教典は、残存するものだけで、約三千二百冊もある。なのに、釈迦が生存中に書かれた教典は一冊もナイ。釈迦入滅は紀元前383年とされているが、最初の教典が編纂されたのは、それから100年もアトになってからだ。では、それまで、どうやって釈迦の教えを伝えあってきたのかというと、「結集(けつじゅう)」という、いわば、仏教者代表全体会議のようなものが何度もあって、釈迦の教えの仕分けをやっていたのだ。ソシュールがこの事実を知っていたら、泣いて嬉しがるかも知れない。なにしろ、そこにはパロールが飛び交っていたのだから。『一般言語学講義』では、ソシュールは、呪詛するかのように「書きコトバ」を嫌悪しているふうに読める。というのも「書きコトバ」というのは、ソシュールによると、ラングのアーカイブスのようなものであり、たとえば「富士山」と書いてしまえば、その意味は聴音の像とは、まったく隔絶されて、一つの意味規定を成すからだ。(聴音の場合は、必ず、そこには、話す主体と聞く主体とが存在するので、コトバの像は、自由だという主張だ)。・・・ところで、私たちが、異議申立(けして、ソシュール言語学を侮蔑、批難しているのではナイ)をしようとしているのは、、私たちは演劇というものにおいて、戯曲という「書きコトバ」をもっており、この「書きコトバ」は「話される・語られる・対話、会話される」ことを前提に書かれているという特殊性によって、散文(小説・詩・essay・評論)とは、位相を異にしているからだ。もし、ソシュールがいうように、あるいは、その後にソシュールの影響を受けた思想がいうように、コトバというものが、人間存在に先立って存在する動かしがたい体系であるのなら、私たちの表現はえらく虚しいものになってしまう。ソシュールは、パロールですら、次第にラングに絡めとられていくことに注意をはらう。「書かれた語は、それを映像とする話された語と、はなはだしくまじり合うけっか、主役を奪ってしまう。そのあげく、ひとは音声記号の表記にたいし、この記号そのものと同程度の、さらにより以上の重要性を与えるようになる。いってみれば、人を識るには、相手の顔をみるより写真をみたほうがよいと思うようなものである」(『一般言語学講義』)・・・だとすれば、戯曲というのは、単なる「音声記号」の表記なのだろうか。役者(演技者)をはじめ、演出家、劇作家は、ラングという言語体系の体現者でしかナイのだろうか。ソシュールの言語(記号)学、ラングという体系にたいして、「劇言語」はどう、応えればいいのだろうか。
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