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2010年7月30日 (金)

毒を喰らわば

かつて身体といえば、流山児のいうように、たしかに「生きざま」だった。いま身体というと単純に「健康」と置き換えることが出来る。新聞広告の殆どは、「健康のための」サプリだし、誰がつけたのか、正式にそんな疾病があるのか「生活習慣病」というのは、いまもって首を傾げる病名で、生活習慣というのが、これだけ複雑になった現代に、正しい生活習慣など誰も持ち合わせていないのがほんとうのところではないのか。ホームレスのおっさんに、あんた生活習慣が悪いんじゃないの、なんて、いえるか。その日暮らしのカフェ難民に、いえるか。要するに、「生きざま」というものが、殆ど完璧なほどに欠如しているのが、いま、という時代なのだ。私は、流山児のブログにおける『劇場法』批判を読んで、『劇場法』に欠落しているのは「身体性」だと思った。たしかに、観念的には、『劇場法』というのは説得力があるのだ。それは、平田オリザ氏が、天性のorganizerだからだろう。だが、劇団『青年団』の演劇に優れたストーリーがあっても、著しく「身体性」が欠如しているようにみえるのが、けしてコトバが優勢なのではなく、劇そのものが身体の個人史を要求していないのと同様に、『劇場法』には経済の論理はあるが、身体の論理はナイ。演劇を続けるということ、それを生活の中に否応なく位置づけて生き抜くということは、いうならば、「毒を喰らわば皿まで」という覚悟か、諦念が必要だ。『劇場法』は下部構造であって、上部構造が表現であるという図式は、たぶん、誤謬であるだろうし、「劇場」というものこそが「身体」であるという、つまりは朽ちていくものだという美学、世阿弥の「花」が能舞台で咲いて枯れるような情況を持たなければ、「劇場」など、単なる機能でしかなくなってしまう。「劇場にとって美とはなにか」などと書くと、笑われるだけかも知れないが、今夜、放送されるという、歌舞伎役者の結婚披露宴を新聞欄でみて、たかが河原乞食じゃないかと、こっちは、そっちのほうを笑っているんだけんど。さて、乞食は乞食らしく、タダ飯食ってくることにする。

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