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2010年7月29日 (木)

犬はふくろうのよう鳴かない

取り急ぎ、一曲、戯曲を書き下ろさねばならないので、そのあいまに、balanceをとるためにこういうつまらぬことも書くのだが、というのも、囲碁棋士は脳を休めるために将棋を指したり、逆に将棋棋士が囲碁をやったり、両者が集まれば麻雀をしたりするのと、よく似ていることをしているのだが、永井均によると哲学などはもう終わってしまっていて、従来の哲学をすることなどは、ほんとうの哲学ではなく、ヘーゲルやカントなどはどうでもいいのであって、子供が素朴に疑問符を持つ「思考」こそが[哲学]であると(『〈子ども〉のための哲学』・講談社現代新書)にあるのだけれど、一応、彼の記した『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)は、これを読むだけで、たしかにウィトゲンシュタインについてはあらかたワカルので、重宝させてもらっているので、ヒマがあれば、この新書の批判なんぞをしていればいい。前回も書いたが、ウィトゲンシュタインという哲学者は、問題意識はよかったんだと思う。それはつまり、哲学の問題を言語によって考えようとする姿勢だ。ただ、このとき、独我論が矛盾した論理だと私たちが指摘するのは、言語によって「世界」をとらえようとする限り、どうしても、最初に「言語」という縛りがあって、それはどこまでいっても「独我」にはならないということだ。そこで後期ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という世界観を持ち出す。永井によると、これは単純なゲームではなく、規則(rule)と実践(play)が逆転しているのだ。つまり、先に実践アリというワケだ。これについては、そんなものはどっちでもいいことだ、に尽きるので言及のしようがナイのだが、いくら言語を発しても、ついには、自分の言語は相手には理解されない、というテーゼは、別にまわりくどく、声を大にしていうほどのものではナイ。表現というものは、常にそこから始まるからだ。ウィトゲンシュタインは、言語学による哲学を、個人史から共同体へと着地させているように思える。主体というものが、消失していくのはそのためだ。さて、もうこの辺にしとく。昼間の雨で湿度が高くなってきた。シャワーでもして、スッキリしよう。

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