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2010年7月 4日 (日)

おコトバではありますが・10

さしあたって、異議申立の方法は二つある。演劇そのものから迫るのも手段なのだが、当初の予定(というか、これを思いついたので、こいつを書き始めたワケなんだけど)である、数学の『群』という考え方を援用しながらすすめてみる。現在、数学教育に「集合」があるのかどうか知らないが、『群』というのは、[操作の集合]だ。いいなおせば、「あるもの、ある構造に何かの変化を与える操作」だ。もちろん、私は「数学ⅡB」までしか数学の知識はナイ。だから、これはまったく見当違いの試みかも知れない。しかし、ポスト構造主義者たちの多くが、その論文に数学を含め、その数学があらかた間違っていることを、数学者が一冊の著作にした話は有名だから、まあ、ハンカチョーの私がマチガッテも、世間的な影響などナイだろう。・・・さて、またコップの登場となる。ここにコップがある。コップと茶碗は、実体として観たら、区別はすぐにつく。ところで、ソシュールの言語学では、所記(シニフィエ)と能記(シニフィアン)との関係がこれを現す。前者は、コップという音声による表記だと思えばイイし、後者は、それを聴くことによって得られた像であると思えばいい。つまり実体はなくてもイイ。コップと茶碗は実体を持たなくても、そのコトバ(記号)の差異によって区別される。ところで、そのコップを二つにしてみる。どっちもコップだから、差異はナイ。次に、このコップの一つを横にして置いてみる。目の前には、立てられたコップと、横にされたコップが在る。どちらもコップであることに差異はナイ。わかりやすく二つにしたが、コップは一つでもイイ。最初は立てて、次は横にしてみる。コップというコトバに何かの差異は生じるか。『群』という考え方でいうならば、コップは立てられたものから、横にされたものへと操作されたことになる。しかし、コップという対象の構造に変化はナイ。コップはコップだ。もっと簡単な例を示す。A4サイズの紙を机上に置いてみる。べつに目の前に差し出してみても構わない。この紙を対角線の交わるところを中心にして、右に10°傾けてみる。さらに10°これを36回繰り返すと、紙は360°回転して、元のカタチにもどる。つまり、それは36回、操作されたA4の紙の[集合]ということになる。A4の紙というコトバに何か差異は生じるか。何なら、紙はそのままで、観ているほうの顔を10°ずつ傾けていってもイイ。『群』という考え方で述べるなら、Sの構造(コップ、A4サイズの紙)があって、それに働く操作の集まり(角度を変えていく)として群Gが考えられる。このとき、Sは働きを受ける[もの]であって、Gは働きそのもの、といえる。このとき、Gをoperatorという。数を[もの]と考えれば、+・-・×・÷は、[はたらき]といえる。つまり、演算というのは、[もの]と[はたらき]の対立だ。そうすると、関数fがxに[はたらいて]yになるf(x)=yも、群の応用だ。この場合のfはfunctionであり、パソコンの上部に横一列に並んでいるFがそれだ。コップというコトバの構造(表記・意味)をそのままにして「操作」する群という考え方を使うと、差異というのをコップそれ自体にではなく、操作の集合として、扱うことが出来る。もう一度これをソシュールふうにいいなおせば、Sをラングとすれば、Gはパロールということになる。しかし、この場合のSは有限集合だが、Gで(可能無限)集合をつくることも出来る。たとえば、Gを「数詞」と考えればイイ。操作の数を「位数」と称するが、数詞の位数は、無限につくることが出来るからだ。・・・ところで、A4サイズの紙を10°傾斜(回転)させるということとは、こうもいえまいか。A4上の任意の点aが、10°ぶんの距離を移動した。そこには、それだけに費やされた「時間」が生ずる。

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