おコトバではありますが・14
さて、私たちは、「語りコトバ・話しコトバ・会話・対話」といういわゆるパロールと、それが体系となったラングの中に、群をさがせば、それで、充分に、ソシュール言語学に異議申立をしたことになる。これはさほど難しいことではナイ。たとえば「狂言」がそうだし、「落語」がそうだ。前者はれっきとした「劇」であるし、後者も広義の意味で一人芝居の「劇」と捉えることに、私は異存はナイ。何れも「書かれたコトバ」としての戯曲(台本)に相当するものは存在しない。であるのに関わらず、同じ演目を、和泉流の野村万作師と、大蔵流の茂山千作師が演ずるのとでは、まったくチガウ。(もちろん、私は、端正な和泉流よりも、お豆腐狂言の大蔵流のほうが好きだ)これは、落語も同じで、立川家元がふつうに高座に上がれなくなったいま、東京(江戸)落語は壊滅しているが、こちらは、志ん生師匠よりも、圓生師匠(六代目)のほうが好きなのだ。驚きは、江戸落語である圓生師匠が、噺の中で使う大阪弁の正確さだ。たとえば、それをソシュールふうにいえば、「イヌ」は大阪弁でアクセントが変化すると、「去ぬ」になって、そこを去ることになる。「犬」という名詞が『夏は来ぬ』の「来ぬ」(たぶん、[ぬ]という助動詞、来たり・来たらば)となる。これらの群を関数で記すとf(G)xだ。同じ表音であろうと、意味の構造は普遍のまま、群が与えられる(はたらく)と、そこには「劇言語」が生ずる。つまり、この場合、操作というのは、ある表現だということは、マチガイのナイことだ。・・・とりあえず、この論考は、一度、幕をおろす。他に仕事がつまってきたというのが、イチバンの要因だが、また、日をあらためて、チガウ接近戦をしてみたいと思う。
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