オカシイな、くらいには思える
岩井克人の『貨幣論』を読んだとき、「違うんじゃナイかな」くらいには思えたのだ。もう少し具体的にいうと、このひとは、[価値形態]について間違っているのじゃナイのかな、と、その程度だ。そこで、確認するかのように『資本論』の「貨幣」を読む。(実は、『資本論』はここしか読んでません)で、「相対的価値形態」と「等価形態」で、「貨幣」が商品としての[形態]であることを納得して、まあ、やっぱり違うんだろうと、思っただけ。ただし、「労働力」と「労働価値」という概念から、「演技力」というものが導き出せたのは、儲けたな、と。私ゃ経済学者でもナンでもありゃしませんから、それくらいでええやろ。・・・同様に、ウィトゲンシュタインを読んだときも、ある異和感があって、いってしまえば、このひとは、出だしで躓いたんじゃナイだろうか、という感触だ。「語り得ぬものには沈黙を」というのは『論考』の有名な一行だが、これと、彼の大きな命題である「哲学は言語の問題だ(あらゆる哲学は『言語批判』である)」というときの、言語の掴み方が、私たちとは違うんじゃナイかな、と、それくらいは思えたのだ。で、後期の『言語ゲーム』で、それは露呈していくように思えた。ウィトゲンシュタインは言語の意味について、「言語の意味とは言語ゲームにおけるその使用である」という命題を提出し、あるところでは、「文に意味を与えるのはわれわれの思念ではないのか」といってみたり、「文の意味とは文の中に吹き込まれた精神ではなく、意味の説明が求められたときの答え」といってみたり、その根底には、いつも[独我論]がひそんでいる。この独我論というのは、基本的に矛盾している論理だというのが、おそらく私たちの見解で、私たちの考えでは[独我]で論するということは不可能である。むしろ、そうであったほうが楽なのであるが、すでにソシュールにおいてさへ、コトバというものは、個人のものではナイことが論及されている。そうすると、ウィトゲンシュタインの言語(コトバ)も、当然、共通の概念や規範からの洗礼を受けねばならず、さて、そこで考え出されたのが、あるルールに従ったゲームとしての言語の展開だった、と考えられる。それが言語ゲームなのだが、このゲームは、残念ながら、私の所轄である演劇においては、なんの役にも立たない(もちろん、そうだからこそ、ウィトゲンシュタイン言語学に、眉をひそめたのだけども)。私の能力では、ただ、「役にたたない」とだけしか、いえないのだが、簡単にいうと、たとえば演者が「富士山」というとき、その台詞は必ずしも、現実の富士山と対応するとは限らないし、また、書かれた演劇としての戯曲においても、同様のことがいえるからだ。塾のレクチャーにおいては、私も「写像」を用いるが、それは塾生の能力として、理解し易いだろうというだけの理由だ。ウィトゲンシュタインは、「語り得ぬもの」という゛もっともタイセツな、コトバとココロに対する本質のテーマに気づいていながら、そこに「沈黙を」なんて、カッコつけてしまったから、その先々で、写像だの記号だの、数学を持ち出して(ほんとうなら、力学くらいを持ち出さないとイケナイ)、自らの世界像を自らの信念どおり自らのコトバの中に描ききってしまった。もちろん、その図表は、それが科学(らしきもの)に傾倒している分、進歩の中に淘汰されてしまう宿命を持つ。
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