おコトバではありますが・13
ここで、たぶんなされるであろう批判に前もって応えておく。「日常会話と芝居のコトバとはチガウのではナイか。演劇のコトバは非日常的だし、ソシュールは日常会話を扱っているのではナイか」・・・こういう、「日常」だの「非日常」だのという、それらしくおぼえたコトバで提出される問いは、まったく意味をなさない。なぜなら、私たちは「火星語」を扱っているのではナイからだ。食事時の会話と、論争をしているときの言語はチガウのではないか、床屋談義と国会答弁はチガウのではないか、といっているに過ぎない。・・・たとえば、戯曲において、次のようにト書きが書かれたとする。
彼と彼女、みつめ合っている。やがて太陽は山陰に沈み、夕陽は赤く空を燃やし、山すら影絵となり、満天の星空がふたりを包むが、彼らはまだみつめあっている。
これが、舞台(演じられた演劇)となった場合、おそらく照明は、そのようにシーンをつくるだろう。しかし、この時間経過は、現実のものではナイ。現実に、そんなに長くみつめ合えることなど出来ないからだ。これは、みつめ合う二人の、ココロの表出を、風景として、表現しているものだ。もちろん、それは形而上的なものといえる。これは「みつめ合う」という行為に対して与えられた「操作」だ。「劇言語」においては、こういう「操作」(これを表現とか描写とかいう)はよくみられるものだ。(みられない、かも知れないけど、私なら書いてしまう)。ここで、一つのドラマツルギーを用いると彼が「愛してる」彼女が「私もよ」という、このコトバの交わりのあいだに、一気に、前述したシーンをすべてみせることも出来る。ここでは、何が(どういう操作)が行われているのだろうか。つまり、観客に、何を訴えたいのだろうか。前述したのとは逆に、二人がそれぞれひとことのコトバを交わす、その時間の経過を、情景の変化によってみせたいのかも知れない。ここでは、ソシュールのいう通時態としての言語機能は、まったく機能しない。もちろん、共時態としての機能も同様だ。むろん、デリダのいう脱構築というものでもナイ。ここでは、「劇言語」はまったく違った時間性と空間性の中にある。簡単に例をとれば、関数f(x)に微分(h→0)という操作を行ったともいえるが、もう少しハッタリをかましていえば、ソシュールの言語軸を実数軸にとり、虚数軸という形而上的な軸を直行させ、回転を与えて得た、複素平面上のものだと、いえなくもない。つまり、この「劇言語」は、現実には存在しないが、概念として存在し、かつ形態を持ち、形而上的に認識され得るもの、ということだ。ト書きに用いられている、言語(コトバ)のそれぞれの要素は、ソシュール言語学上でも立派に機能する。しかし、そこには、たとえば、円関数(三角関数)でいう、sinθの傾斜角が複素平面に対して与えられているため、(そのように操作されているため)コトバの座標が、実数上にはナイのだ。だから、そのト書きを読む(あるいは、そのシーンを観る)読者、観客は、すでにラングやパロールなどという形式からは、違った位相に置換されていることになる。
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