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2010年7月

2010年7月31日 (土)

日本の水売ります

『日本売ります』は、小松左京さんの短編SF小説で、宇宙人が、日本の土地を買い占める話だったと記憶するが、本日(7月31日土曜日)の産経新聞一面コラム『水 異変・5』はそれと似たような現実の話で、ちょっとした怪談より背筋が寒くなる内容だった。まったく知らなかったが、日本という国は、あの豊臣秀吉がおこなった「太閤検地」以後、私有林の6割の地籍があきらかでナイのだ。つまり、日本の私有林の半分以上は、「誰がどこを、何の目的で所有しているのか」ワカラナイままで放ってあるらしい。で、水源地というのは、たいていが、この私有林の奥深くにあるので、外資系資本が、これをどんどん買い占めていっているのだという。いまのところ野放しのやりたい放題状態なのだ。近い将来、日本人は、外資系会社から、日本の水を買わなくてはいけない状況になるだろうというのが、締めくくりで、水道をひねれば水が飮める時代も、そう長くは続かないようだ。いやあ、驚きだなあ。でも、うちの実家は、水洗トイレの水以外は、井戸水だから、安心安心。そういう時代が来たら、うちの井戸水も売れるぞ、と阿漕なことを胸算用しているが、アメリカも、沖縄全土の土地を買収しちまえば、基地問題もそれで解決。簡単じゃん。だって、戦後、皇族の土地を買い占めたのが西武グループで、そこにホテルを建てたから、プリンスホテルっていうんだぜ。皇居なんて丸ごと買っちゃって、ホームレスのひとたちに解放してしまって、天皇陛下と農業しながら仲良く暮らしていただくというユートピア。ダメかな。こういうことを考えるのは、暑さのせい、ということにしておこう。

2010年7月30日 (金)

毒を喰らわば

かつて身体といえば、流山児のいうように、たしかに「生きざま」だった。いま身体というと単純に「健康」と置き換えることが出来る。新聞広告の殆どは、「健康のための」サプリだし、誰がつけたのか、正式にそんな疾病があるのか「生活習慣病」というのは、いまもって首を傾げる病名で、生活習慣というのが、これだけ複雑になった現代に、正しい生活習慣など誰も持ち合わせていないのがほんとうのところではないのか。ホームレスのおっさんに、あんた生活習慣が悪いんじゃないの、なんて、いえるか。その日暮らしのカフェ難民に、いえるか。要するに、「生きざま」というものが、殆ど完璧なほどに欠如しているのが、いま、という時代なのだ。私は、流山児のブログにおける『劇場法』批判を読んで、『劇場法』に欠落しているのは「身体性」だと思った。たしかに、観念的には、『劇場法』というのは説得力があるのだ。それは、平田オリザ氏が、天性のorganizerだからだろう。だが、劇団『青年団』の演劇に優れたストーリーがあっても、著しく「身体性」が欠如しているようにみえるのが、けしてコトバが優勢なのではなく、劇そのものが身体の個人史を要求していないのと同様に、『劇場法』には経済の論理はあるが、身体の論理はナイ。演劇を続けるということ、それを生活の中に否応なく位置づけて生き抜くということは、いうならば、「毒を喰らわば皿まで」という覚悟か、諦念が必要だ。『劇場法』は下部構造であって、上部構造が表現であるという図式は、たぶん、誤謬であるだろうし、「劇場」というものこそが「身体」であるという、つまりは朽ちていくものだという美学、世阿弥の「花」が能舞台で咲いて枯れるような情況を持たなければ、「劇場」など、単なる機能でしかなくなってしまう。「劇場にとって美とはなにか」などと書くと、笑われるだけかも知れないが、今夜、放送されるという、歌舞伎役者の結婚披露宴を新聞欄でみて、たかが河原乞食じゃないかと、こっちは、そっちのほうを笑っているんだけんど。さて、乞食は乞食らしく、タダ飯食ってくることにする。

2010年7月29日 (木)

犬はふくろうのよう鳴かない

取り急ぎ、一曲、戯曲を書き下ろさねばならないので、そのあいまに、balanceをとるためにこういうつまらぬことも書くのだが、というのも、囲碁棋士は脳を休めるために将棋を指したり、逆に将棋棋士が囲碁をやったり、両者が集まれば麻雀をしたりするのと、よく似ていることをしているのだが、永井均によると哲学などはもう終わってしまっていて、従来の哲学をすることなどは、ほんとうの哲学ではなく、ヘーゲルやカントなどはどうでもいいのであって、子供が素朴に疑問符を持つ「思考」こそが[哲学]であると(『〈子ども〉のための哲学』・講談社現代新書)にあるのだけれど、一応、彼の記した『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)は、これを読むだけで、たしかにウィトゲンシュタインについてはあらかたワカルので、重宝させてもらっているので、ヒマがあれば、この新書の批判なんぞをしていればいい。前回も書いたが、ウィトゲンシュタインという哲学者は、問題意識はよかったんだと思う。それはつまり、哲学の問題を言語によって考えようとする姿勢だ。ただ、このとき、独我論が矛盾した論理だと私たちが指摘するのは、言語によって「世界」をとらえようとする限り、どうしても、最初に「言語」という縛りがあって、それはどこまでいっても「独我」にはならないということだ。そこで後期ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という世界観を持ち出す。永井によると、これは単純なゲームではなく、規則(rule)と実践(play)が逆転しているのだ。つまり、先に実践アリというワケだ。これについては、そんなものはどっちでもいいことだ、に尽きるので言及のしようがナイのだが、いくら言語を発しても、ついには、自分の言語は相手には理解されない、というテーゼは、別にまわりくどく、声を大にしていうほどのものではナイ。表現というものは、常にそこから始まるからだ。ウィトゲンシュタインは、言語学による哲学を、個人史から共同体へと着地させているように思える。主体というものが、消失していくのはそのためだ。さて、もうこの辺にしとく。昼間の雨で湿度が高くなってきた。シャワーでもして、スッキリしよう。

オカシイな、くらいには思える

岩井克人の『貨幣論』を読んだとき、「違うんじゃナイかな」くらいには思えたのだ。もう少し具体的にいうと、このひとは、[価値形態]について間違っているのじゃナイのかな、と、その程度だ。そこで、確認するかのように『資本論』の「貨幣」を読む。(実は、『資本論』はここしか読んでません)で、「相対的価値形態」と「等価形態」で、「貨幣」が商品としての[形態]であることを納得して、まあ、やっぱり違うんだろうと、思っただけ。ただし、「労働力」と「労働価値」という概念から、「演技力」というものが導き出せたのは、儲けたな、と。私ゃ経済学者でもナンでもありゃしませんから、それくらいでええやろ。・・・同様に、ウィトゲンシュタインを読んだときも、ある異和感があって、いってしまえば、このひとは、出だしで躓いたんじゃナイだろうか、という感触だ。「語り得ぬものには沈黙を」というのは『論考』の有名な一行だが、これと、彼の大きな命題である「哲学は言語の問題だ(あらゆる哲学は『言語批判』である)」というときの、言語の掴み方が、私たちとは違うんじゃナイかな、と、それくらいは思えたのだ。で、後期の『言語ゲーム』で、それは露呈していくように思えた。ウィトゲンシュタインは言語の意味について、「言語の意味とは言語ゲームにおけるその使用である」という命題を提出し、あるところでは、「文に意味を与えるのはわれわれの思念ではないのか」といってみたり、「文の意味とは文の中に吹き込まれた精神ではなく、意味の説明が求められたときの答え」といってみたり、その根底には、いつも[独我論]がひそんでいる。この独我論というのは、基本的に矛盾している論理だというのが、おそらく私たちの見解で、私たちの考えでは[独我]で論するということは不可能である。むしろ、そうであったほうが楽なのであるが、すでにソシュールにおいてさへ、コトバというものは、個人のものではナイことが論及されている。そうすると、ウィトゲンシュタインの言語(コトバ)も、当然、共通の概念や規範からの洗礼を受けねばならず、さて、そこで考え出されたのが、あるルールに従ったゲームとしての言語の展開だった、と考えられる。それが言語ゲームなのだが、このゲームは、残念ながら、私の所轄である演劇においては、なんの役にも立たない(もちろん、そうだからこそ、ウィトゲンシュタイン言語学に、眉をひそめたのだけども)。私の能力では、ただ、「役にたたない」とだけしか、いえないのだが、簡単にいうと、たとえば演者が「富士山」というとき、その台詞は必ずしも、現実の富士山と対応するとは限らないし、また、書かれた演劇としての戯曲においても、同様のことがいえるからだ。塾のレクチャーにおいては、私も「写像」を用いるが、それは塾生の能力として、理解し易いだろうというだけの理由だ。ウィトゲンシュタインは、「語り得ぬもの」という゛もっともタイセツな、コトバとココロに対する本質のテーマに気づいていながら、そこに「沈黙を」なんて、カッコつけてしまったから、その先々で、写像だの記号だの、数学を持ち出して(ほんとうなら、力学くらいを持ち出さないとイケナイ)、自らの世界像を自らの信念どおり自らのコトバの中に描ききってしまった。もちろん、その図表は、それが科学(らしきもの)に傾倒している分、進歩の中に淘汰されてしまう宿命を持つ。

2010年7月28日 (水)

ワカラナイということはわかっている

現在の時空で起こる事象を科学で証明、あるいは解説程度出来るのは、4%だ。また、宇宙を構成している元素は、これも4%に過ぎず、このエネルギーに対して、74%がダークエネルギー、22%がダークマターと称される未知のenergyだ。この未知のenergyの質量による引力への反発によって宇宙は膨張しているわけだが、要するに96%、この宇宙は何で出来ているのかがワカッテいないということは、わかっている。私たちは、宇宙を、日常的な思考傾向から、球体のように考えがちだが、現在のところ、宇宙図を描こうとすると、これが、一粒の水滴のようになる。romanticに考えると、宇宙は、涙のひとしずくなのだ。星占い、星座占いを否定する者のいいぶんは、地球からみえる星座も、それぞれの天体は何光年も離れていて、関係性はナイというものだが、その何光年も離ればなれの天体が、地球からみると、星座になるということが、逆説的にいえば、タイセツなことなのだ。もちろん、私は、占星術というものは信じていないが、占星術を考え出した人間の創造性は信じている。・・・私は、宗教者が山籠もりなどして、悟ったなどという話を聞くたびに、悟るために何故、山籠もり(滝に打たれたりとかネ)などしなければならないのか、まるでワカラナイやからなので、ほんとうに悟るためには、そういう隔絶された場所ではなく、たとえば、職場であったり、町中であったり、実人生の現場がそういうところなのだから、釈尊の真似だけしていればいいってもんじゃねえだろうと、いまなお、そうひねくれて考えているが、というのも、瞑想したり、修行したりして悟ったものなど、そういう環境とは関係のナイ人生の現場においては、けっきょく独りよがりのオスマシ顔にしか過ぎないと判じているからで、たとえ、人間はその人間の個的、共同性によっての領域においてでしか、どんなものに対しても答を得られないとしても、そういうところで、自覚、覚悟したものでなければ、みんなウソである。東京で、元劇団員のある者と、飯を食う機会があったが、彼女は、何かを学問したワケではないが、いってみれば、自分の人生の経験値をヘーゲル弁証法の[反省]と、キェルケゴール、ハイデガー実存主義の[反復]とで構築しており、「生き方」というのがナンであるかという答を、彼女なりに編み出していて、それは道元の思想に近いものであった。この先は、その「生き方」をどう生きるかという、さらなる人生があるのだろうが、元劇団員たちが、それぞれに自立の道に進んでいるということは、一緒に演劇をやって良かったなあと、自身の演劇の方法が、誤謬も多くあるのだろうが、恨み辛みもかっているのだろうが、さほど、間違いではなかったと、ある安堵をおぼえるのだ。

2010年7月27日 (火)

ゾンビとミステリ

東京での空き時間に、渋谷で映画を観た。が、渋谷というのは、すり鉢の底のような街なんだなあ。最初は道を間違えて、これが、陽気が良かったら探検したいような風俗横丁だったけど、モノスゴイ暑さで倒れる寸前だから、『道頓堀劇場』なんてストリップ小屋を横目でみながら、半ば諦めていたところに、開場2分前に映画館が現れた。観たのは『ザ・ホード』とかいうゾンビ映画。ゾンビ映画というのは、ホラーでもスリラーでも、サスペンスでも、ない、のだということを初めて知った。ゾンビ映画はゾンビ映画という、genreなのだ。この映画も(フランス映画なのだが)警官の不倫話なんてのから始まって、警官仲間がギャングに仇討ちに行くという、冒頭から、いきなり、活躍しそうな警官の首謀者が殺されちゃうんだな。えっ、なんて思っていると、突然、ゾンビが出てくる。ゾンビというのは、形態としては、血肉を喰らう死人(シビト)の化け物なのだが、観念的(潜在的)には、伝染病(感染症)の恐怖、なのだから、いつ、どこで、どんなふうに出ようと、説明ぬきでイイ。たとえば、あの韓国ドラマ『冬のソナタ』で、山頂の建物に吹雪で閉じ込められた、ヨンさまと、ジウ姫のところに、ゾンビが出てきたとする、するともうゾンビ映画になるのだ。これは、実に面白いドラマツルギーだ。いつか使ってみよう(と思ったら、もう使ってたわ、ある戯曲で)。次に観たのが、『華麗なるアリバイ』で、アガサ・クリスティー原作の映画(原題は、『ホーロー荘の惨劇』だったか)だが、犯人の作り方や動機はまあ、なんとか及第として、ちょっとどうかと思うところが、以外に幾つもあったですわ。全然ワカランところも一つあったとです。まあ、暑さで、私の頭がどうかしているのか、作品としては、同じ女性作家でも、五十歳半ばから『バーナビー警部』シリーズで脚光をあびているキャロライン・グレコムにおいて、アガサ・クリスティーは、もはや、ほんとうに古典でしかなくなったのではないでせうかね。

二人芝居のごようす

書き手としても、たま~に、演技者(役者)をやるのは勉強になる。流山児との二人芝居(演出・小林七緒)の稽古が本格的に始まったが、あちら(流山児事務所)は年間8本もの芝居にプラスして、ワークショップやセミナーをこなしているので、忙しい中の時間を切り取ってのハードスケジュールだ。んが、こっちも、役者をやるのはずいぶんで、不安要素というのがある。とりあえず、体力というやつ。これは、東京の地下鉄(都営地下鉄と東京メトロは違うのだということを初めて知った。要するに、チケットの買い方で首をひねったワケだ)の乗り換えやら、ともかく、重いリュックを背負って歩かなければならないので(普段、そんなに歩くということがナイために)足腰が弱っていて、ついに四日目にして、乗り換えの駅で、歩けなくなり、ホームにへたり込んだ。これにはまいったが、稽古場に行ったら、そういうことは知らん顔しておいて、さて、この稽古だが、流山児のブログにもあるように、あちらは、ともかく台詞を入れねばならないということが、(なんでかワカランけど)プレッシャーらしく、ハナっから粗立ちの稽古なのだが、ハナっから、むちゃくちゃの台詞(おぼえてナイのに、ホンを離すから)が飛んでくる。(もちろん、これには、演出から、やさしいコトバでのyellow cardが出ましたが。具体的にいうと「ホン、持ってもいいんだから」ですね)そもそも、二人芝居というのは、相手が一人なもんだから、こっちの台詞でナイときは、相手の台詞、相手の台詞でナイときは、こっちの台詞と決まっている。もう少々いえば、こっちは相手に、相手はこっちに、台詞をうまくパス(あるいはトス)しなければならない。それを聞いて、こっちか、あっちか、台詞が出るのだからだ。そういうふうに、今回のホンも書かれている。ところで、流山児というのは役者としてはあんまり使いもんにならないほうで、なんでかというと、自己完結してしまうのだ。つまり、台詞をいったらいったきりなのだ。ボケでもツッコミでもナイ。ともかくも、流山児の流儀というのが、芝居というのは、表現というよりも、生きざまだということなので、それは、まあ、それで、別に私にはどうでもいいのだが、演出の七緒くんの、飴と鞭が、流山児を知り尽くしているというか、よく調教していて、このいったらいったきりを、いかに相手を通して、自分に戻り、また相手に向かわせるかというキャッチボールにしたてながら、流山児のある種の魅力(可愛さ、charming)をpasteさせていくのは、彼女を演出に頼んで、正解であった。私は、役作り(などというと、誤解されそうだが)、つまり、どんなふうな演じ方をすれば、楽しくやれるか、を捜しているだけで、台詞など、やってるうちに自然に出てくるだろう程度にしか考えていない。このチグハグな二人芝居の末路や如何に、とでもいったところで、なんとなく、今月の稽古最終日には、それなりの芝居にしてしまっているのだから、流山児も七緒も私もcareerというのは、あなどれないものだ。

2010年7月26日 (月)

new! 新着情報:DIVE×メイシアター合同プロデュース公演 出演者募集締切りが間近です☆(2010.0810終了)

new! ■ 北村 想 作 「DIVE×メイシアター合同プロデュース公演」 出演者募集締切りが間近です。…(2010.0810受付終了)

2011年3月26日(土)・27日(日)、メイシアター・中ホールで行なわれる「DIVE×メイシアター合同プロデュース公演」/作・北村想 演出・深津篤史(桃園会)の出演者募集締切りが、8月10日(火)と迫っています。

応募方法等、詳しい情報は下記をご覧下さい。

メイシアター「DIVE×メイシアター合同プロデュース公演」出演者募集ページ

2010年7月23日 (金)

new! 新着情報: 『a tide of classics ~三好十郎・浮標~』 アフタートーク出演(20100808 終了)

new! ■ 北村 想 アフタートーク 出演 …終了しました。御来場ありがとうございました★

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桃園会 第39回公演 『a tide of classics ~三好十郎・浮標~』

8月8日(日)13:00~の公演終了後、北村想がアフタートークに出演致します。

チケットのご予約、お問合せは下記の桃園会公式HPへ。

【ご予約・問合せ】 桃園会『a tide of classics ~三好十郎・浮標~』公演情報

【精華演劇祭】 精華小劇場HP・精華演劇祭情報

2010年7月19日 (月)

腹一杯

昨日は『プレデターズ』。極めて単純なstory。要するにみせ方(plot)勝負。実際にシナリオには、どう書かれているのだろうかと、逆に興味がわく。あれで、hero、heroine、の心情(の移り変わり)を納得がいくように描いているのだから、畏れ入る。シナリオの持つ構造(位相・順序・代数-関数-)のお手本のようなシンプルな作品。ただし、やや、満腹に過ぎた。とはいえ、戦闘のプロたちが、自分たちが拉致されてきたところが、地球外惑星であるところをかいま見る瞬間の、なんとまあ、お見事。送られてきた8人のうち、どうしても戦闘(凶悪)とは無関係な医師の存在があきらかになる、ラストシーンは、すでに、冒頭でインプットされているものの、アウトプットなのだが、あ、そういえばと、観ているものに思わせる、ミスディレクションがまた上手い。ああいうのは、同業者である私も、あやうく誤魔化されてしまう。観たひとは思い出すといいが、花か、毒か、メスか、ポイントがうま~くずらされているからだ。

さて、本日は、数少ない仕事の、伊丹の塾。明日から、また東京。で、例によってしばらくは開店休業でございます。

2010年7月18日 (日)

考えない

深津演出、DIVEとメイ・ホールとの共催の作品、8月の22日にオーディションということで、何もなくて、オーディションというのは、難しいだろうと(ほんと、いえば、こっちが辛い。決まった面子で書かなければいけないので)、とりあえず、と、ホンを急いで、三日で書き上げた。書くのが仕事の受注産業は、こういう離れ業もやってしまう。遅筆だのとかいうのは、偉い劇作家(故人の井上さん)とか、劇団主催の座付きにのみゆるされることで、暇なときには、ナンの仕事もナイが、あるときは、怒濤のごとく押し寄せる仕事を片づけていくという、渡世には、そういう我が儘は通らない。それで30年(名古屋には40年住んだけど、書き物が銭になったのは28歳のときだから)食ってきたので、また、それでしかもう、食えないので、そうしていくしかナイ。出向いて教えるなんてのは、出無精には出来ないので、訊きたければ「乞いに来い」で、伊丹でしか塾はやんない。要するに書くことでしか成り立っていないのだ。明日はその塾で、明後日からはまた東京。維新派の犬島には、さすがに行く余力なく、諦めた。帰ってきたら、21世紀フォックスの正月公演の書き下ろしに入る。冒頭(導入)の部分だけが頭ん中で出来ているが、アトはまったく真っ白け。ちょっとは、休んで、ぼうーっと何も考えない時間など持ったらばとは、いわれるが、「考えない」というのは禅の修行でしか得られないことなので、そう、簡単なことではナイ。小人は閑居すると、どうも良くないことしか(考えているワケではナイのだが)、頭に浮かんでこない。私の場合は、鬱っけなので、よけいにつまらぬことしか浮かばない。考えないようにするためには、映画がいいのだが、これがつまらない作品となると、ストレスで、咳き込みが止まらない。それでも、昨日は、ちょいと外に出ることをおぼえたので、今日も、同じシネコンに行ってみるつもりだ。二両の電車に乗って10分ほど。道程は暑いが、映画館は涼しいから、エアコン代の節約にもなる。今日の映画が、アタリだといいんだけどな。

2010年7月17日 (土)

かってに死ね『必死剣鳥刺し』

大津にシネコンがあるのを、偶然、新聞でみつけて、観に行った。『必死剣鳥刺し』(監督・どこのどいつでもいい)。まったく期待などしていなかったが、池脇千鶴だけでも観てりゃいいかと思っていたら、その通りになった。能役者のほうからたっぷり写せという条件があったのかも知れないが、導入が、長~い能のシーンである。(あのな、ネタバレがどうのなんかいう輩は、私のこのブログなど読まんでいい)。しかし、この長ったらしいシーンは、カットの割り方によっては、重要なシーンとして描写出来るはずなのだ。ここで、監督の無能(能じゃナイのよね)がさらけ出される。だいたい、時代劇というのはクリシエ(版型)なんだから、話(story)はもう、よほどのアホでナイ限り、頭の部分を観れば最後までワカルのだ。だからこそ、プロット(plot)勝負なのだ。原作が短編なんだから、それを二時間近くに引き伸ばすなどという、シナリオ作家も、また無能。なにしろ、エピソードは一つしかナイんだから。で、登場人物がプロトタイプなんだから、つまり時代劇というのは、そうなんだから、で、どうすんだ、というのが、創意と工夫だろう。流行に乗って、藤沢周平やってりゃいいというもんじゃないんだ。シナ作も、監督も、ちっとは、全盛期の東映時代劇でも観て、勉強しなさい。東映じゃナイけど、大映の『眠狂四郎』シリーズや、『座頭市』シリーズなんて、みな90分をきってるんだぜ。それらもクリシエではあるけれど、池脇千鶴だけでもってるようじゃ、情けねえ。

2010年7月16日 (金)

つかぬこと

この業界で40年やっているから、表も裏も知っているので、いまさら、立派なひとをなくしたのと、肩を落とすこともなければ、早すぎると嘆くこともないのだが、つかこうへい氏の演劇からは、どんな影響も受けていない私が、現実に遭遇した事柄を少し述べておく。まだ彼が劇団『暫』と良好な関係であったとき、名古屋でも何度か公演があって、まだ彼も時間に余裕のある身であったから、名古屋の演劇インテリたちが、焼鳥屋の二階座敷に彼を招いて、飲み会を催したことがあった。私も末席に座って、酒は飲まず、彼が名古屋インテリ演劇に対して何を語るのかを拝聴していたのだが、まず、インテリ連中の、演劇論の応酬があり、それぞれが(当時の私が聞いていても)ろくでもない立派なことを述べていたが、つか氏はこれに加わろうとはせず、ただ、黙ってビールを舐めているだけだった。しびれをきらした、演劇論リーダーが、「つかさんは、どうお考えになりますか」と、話を振った、そのとき、これをかわすでもなく受けるでもなく、「懐手してひとを斬る」とでもいおうか、ひとこと「ところで、つかぬことをうかがいますが、あなたがたは、何で食べてらっしゃるんですか」と、そのコトバを一閃させた。ここで、空気は凍りついたようになり、演劇論もへったくれもなくなって、さて、その後のことは知らない。私は座を離れたからだ。まさに勝負あったとしかいいようがナイ。つか氏がブレイクして、名古屋の某劇団が『熱海殺人事件』を上演したとき、カーテンコールで、役者が勢ぞろいして、それぞれ手に団扇を持ち、これをいっせいに裏返すと、文字が一文字ずつ書かれていて「客席につかさんがおみえです」と読める趣向だったが、どこを捜してもつか氏の姿はなく、これもまた、つか氏らしいすっぽかしの小気味よさだなと、私は苦笑した。生前は一度もお会いしたことはナイが、おそらく、会っていたら、食うためにゴーストライターの仕事くらいは引き受けていたに違いない。

2010年7月14日 (水)

万事公論に決すべし

旅寝の空からは、とおに帰っているのだが、急ぎの仕事で、ご無沙汰していた。選挙のときは東京にいて、開票速報わずか5分で当確の出るシステムには、いまさらながら、呆れるというしかナイし、30分ほどで大勢がワカルのだから、なんだかつまらんような気もする。で、有権者の選んだのは、ねじれ国会でも、民主党批判でもなく(そんなものは単なる結果の読み方に過ぎない)、要するに、この国においては、どの政党もいまの情況を打破していく能力はナイという判断だ。これは、まったく正しいことで、国会という場が、数から、本来の討論の場になれば、それにこしたことは、ない。もう、国民は党利党略には厭き厭きしているのだ。ましてや、どの政党もこれといった指針を打ち出せず、目くそ鼻くそを笑うがごとき、他党の悪口に終始していた選挙戦は、みるに耐えぬアホの罵り合いであった。「誰もが一汁一菜の三度の飯と、温かい布団で安心して眠れる国を」と、どうして候補者は口にしなかったのだろうか。大言壮語はもう聞き飽きているのだ。経済成長なんざ、中国に好きなようにやらせとけばいいのだ。いずれツケはまわっていくのに決まっている。消費税をいいだしたのが、今回の選挙での民主党の敗因だなどと、とうの民主党が内紛しているのは、愚の骨頂で、税金というのは、国民の義務であるのだから、それを徴収して、どこにどう賄うかを、具体的に説明しさへすれば、立派な案件であることはいうまでもナイ。べつに徴兵をいいだされたワケではなく、そんなに目くじらたてるもんではナイ。政党というのは、政治を職業にしている政治家の団体であるのだから、さて、キチンと(このキチンというコトバを議員は口にしすぎるが)議論をして、まともな商売をやってもらおうじゃないか。

2010年7月12日 (月)

new! 新着情報:オペラ 想稿・銀河鉄道の夜…(2010.0912終了)

new! ■ 原作 北村 想 …終了しました。御来場ありがとうございました。

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2010年9月3日(金)~12日(日) シアタートラム

オペラシアター こんにゃく座公演 

「オペラ 想稿・銀河鉄道の夜」

原作:北村 想 作曲・音楽監督:萩京子 演出:大石哲史

【公演情報・チケットご予約】 オペラシアターこんにゃく座HP

2010年7月 7日 (水)

おコトバではありますが・捕捉

付け加えておくならば、シリーズを始めるとき、私には、幾つかの不満があった。まず、ソシュールのいうラングというのは、そんなに悪いものなのか、逆にパロールというのは、そんなにいいものなのか、という素人考えと、同じように、形而上的なものがアカンのなら、戯曲みたいなもん書けへんでという、こちらは嘲笑に似たものだ。私の『寿歌』は、かなり評価を得た反面、毀誉褒貶でか、いわゆるリアリズム志向の劇作家、演劇関係者連中からは、酷評されたようだ。(詳しいことは知らん)。そこで、私は「演劇におけるリアリズム」という自分の考え方を示してみるしかなかった。さて、それが理解されたかどうかも、知らん。・・・ジャック・デリダ(バウアーではナイ)の「脱構築」という考え方は、オモシロイなと思った。しかし、この考えは、ハンカチョーでいうと、ヘーゲルが述べたカントの[仮象]概念と、それほどの差異はナイのではないか。また、フッサールの[還元]とも似たりよったりではないか。・・・私の作品に『血と青空』というのがあるが、このタイトルを聴音像として認識する場合、おそらくさまざまな「像」が生ずるはずだ。「血」「と」「青空」の聴音の意味になんの変化がなくとも、「像」が変化するのはどうしてなのか。この戯曲は、人々の新型ウイルスとの闘いを描いているものだが、タイトルから与えられる像解釈では、アクション劇とも、戦争劇とも、ミステリとも、家族系統の劇とも受け取ることが可能だ。私は、劇団を終えてから後に、『ヴァイアス~愛するものもまた死す』というミステリ劇を書いて、上演(avecビーズ)したが、これをミステリだと思ったひとは殆どいなかったようだ。何が弊害をもたらしているのかは知らないが(ほんとは知っているんだけど)、こと、演劇というのは、文学(小説・et cetera)などに比して、かなり遅れた文化だ。けったいな海外の学説がまかり通っているし、インテリの玩具になっているし、庶民大衆のレクレーションになっているし、世間知らずの演出家と、演技知らずの役者と、作文しか書けない(自称)劇作家が、大きな顔をして闊歩している領域だ。そこへまた、贔屓の観客が、ワッと集まって、およそ2年ももたずに去っていく。労働と、労働力のわからぬ拝金主義者が、ワケのワカランもんをやってもらうより、有効利用して、ショッピングモールをつくったほうがいいなどと、古今、哲学者を一人も輩出したことがナイという街で気勢をあげる。さて、私の次なる仕事は、かくなる拝金主義者どもに、可能性の鉄槌をくらわす「演劇は形而上的でいいじゃないか」というコトバの実践だ。てなことで、明日からまた、旅寝の空で(そういうふうにして、オツムを休息させている)しばし、ここも、開店休業となる。

2010年7月 6日 (火)

おコトバではありますが・14

さて、私たちは、「語りコトバ・話しコトバ・会話・対話」といういわゆるパロールと、それが体系となったラングの中に、群をさがせば、それで、充分に、ソシュール言語学に異議申立をしたことになる。これはさほど難しいことではナイ。たとえば「狂言」がそうだし、「落語」がそうだ。前者はれっきとした「劇」であるし、後者も広義の意味で一人芝居の「劇」と捉えることに、私は異存はナイ。何れも「書かれたコトバ」としての戯曲(台本)に相当するものは存在しない。であるのに関わらず、同じ演目を、和泉流の野村万作師と、大蔵流の茂山千作師が演ずるのとでは、まったくチガウ。(もちろん、私は、端正な和泉流よりも、お豆腐狂言の大蔵流のほうが好きだ)これは、落語も同じで、立川家元がふつうに高座に上がれなくなったいま、東京(江戸)落語は壊滅しているが、こちらは、志ん生師匠よりも、圓生師匠(六代目)のほうが好きなのだ。驚きは、江戸落語である圓生師匠が、噺の中で使う大阪弁の正確さだ。たとえば、それをソシュールふうにいえば、「イヌ」は大阪弁でアクセントが変化すると、「去ぬ」になって、そこを去ることになる。「犬」という名詞が『夏は来ぬ』の「来ぬ」(たぶん、[ぬ]という助動詞、来たり・来たらば)となる。これらの群を関数で記すとf(G)xだ。同じ表音であろうと、意味の構造は普遍のまま、群が与えられる(はたらく)と、そこには「劇言語」が生ずる。つまり、この場合、操作というのは、ある表現だということは、マチガイのナイことだ。・・・とりあえず、この論考は、一度、幕をおろす。他に仕事がつまってきたというのが、イチバンの要因だが、また、日をあらためて、チガウ接近戦をしてみたいと思う。

おコトバではありますが・13

ここで、たぶんなされるであろう批判に前もって応えておく。「日常会話と芝居のコトバとはチガウのではナイか。演劇のコトバは非日常的だし、ソシュールは日常会話を扱っているのではナイか」・・・こういう、「日常」だの「非日常」だのという、それらしくおぼえたコトバで提出される問いは、まったく意味をなさない。なぜなら、私たちは「火星語」を扱っているのではナイからだ。食事時の会話と、論争をしているときの言語はチガウのではないか、床屋談義と国会答弁はチガウのではないか、といっているに過ぎない。・・・たとえば、戯曲において、次のようにト書きが書かれたとする。

彼と彼女、みつめ合っている。やがて太陽は山陰に沈み、夕陽は赤く空を燃やし、山すら影絵となり、満天の星空がふたりを包むが、彼らはまだみつめあっている。

これが、舞台(演じられた演劇)となった場合、おそらく照明は、そのようにシーンをつくるだろう。しかし、この時間経過は、現実のものではナイ。現実に、そんなに長くみつめ合えることなど出来ないからだ。これは、みつめ合う二人の、ココロの表出を、風景として、表現しているものだ。もちろん、それは形而上的なものといえる。これは「みつめ合う」という行為に対して与えられた「操作」だ。「劇言語」においては、こういう「操作」(これを表現とか描写とかいう)はよくみられるものだ。(みられない、かも知れないけど、私なら書いてしまう)。ここで、一つのドラマツルギーを用いると彼が「愛してる」彼女が「私もよ」という、このコトバの交わりのあいだに、一気に、前述したシーンをすべてみせることも出来る。ここでは、何が(どういう操作)が行われているのだろうか。つまり、観客に、何を訴えたいのだろうか。前述したのとは逆に、二人がそれぞれひとことのコトバを交わす、その時間の経過を、情景の変化によってみせたいのかも知れない。ここでは、ソシュールのいう通時態としての言語機能は、まったく機能しない。もちろん、共時態としての機能も同様だ。むろん、デリダのいう脱構築というものでもナイ。ここでは、「劇言語」はまったく違った時間性と空間性の中にある。簡単に例をとれば、関数f(x)に微分(h→0)という操作を行ったともいえるが、もう少しハッタリをかましていえば、ソシュールの言語軸を実数軸にとり、虚数軸という形而上的な軸を直行させ、回転を与えて得た、複素平面上のものだと、いえなくもない。つまり、この「劇言語」は、現実には存在しないが、概念として存在し、かつ形態を持ち、形而上的に認識され得るもの、ということだ。ト書きに用いられている、言語(コトバ)のそれぞれの要素は、ソシュール言語学上でも立派に機能する。しかし、そこには、たとえば、円関数(三角関数)でいう、sinθの傾斜角が複素平面に対して与えられているため、(そのように操作されているため)コトバの座標が、実数上にはナイのだ。だから、そのト書きを読む(あるいは、そのシーンを観る)読者、観客は、すでにラングやパロールなどという形式からは、違った位相に置換されていることになる。

2010年7月 5日 (月)

おコトバではありますが・12

「1、書の記号は恣意的である。たとえば[れ]の字とそれが示す音のあいだには、なんの関係もない」「2、文字の価値は純粋に消極的であり、差異的である。かくして同一人が[れ]の字をつぎのようにいろいろの書体で書くことができる。(このアトにさまざまな書体の[れ]が示される)肝要なことはただ一つ、この記号が運筆上[わ]なり[ね]なりと混同しないことである」「3(略)」「4、記号の制作手段は全然問題にならない、それは体系の関知するところではないからである(これも第一の特質からくる)。白く書こうと、凹字にしようと凸字にしようと、ペンを使おうとのみを使おうと、それらの意義にとってはどうでもいいことである」(『一般言語学講義』)・・・群として[れ]という字を扱えば、この操作は無限にある。大小が変えられるし、先の例示によって、傾斜(回転)が与えられる。また、「2」のように書体を変えることも出来る。たしかに、「1」のいうとおり、どのようにしても、[れ]という字の意義(意味)は変わらない。「4」も同様のことと思える。しかし、ここで変わっていることがある。それは、とりもなおさず「操作された」ということ自体だ。「操作する」ということに関して、ソシュールはあまりに無頓着だ。私たちのように「劇言語」を扱うものにおいては、言語にとって、それが「書かれた言語」から「語られる・話される・対話される、言語」へと操作されることが重要な意義を持つ。そうでないと、演劇は成り立たない。また、ひとは、如何なる場合(情況)においても「私独り」となることは出来ない。ここをヘーゲル的にいえば、「私」というものが、本質的に「一」ではナイからだ。ヘーゲル弁証法は、必ず「対象」を意識としてとりこむので、「対象」の概念が「多」であった場合(まず、それ以外の対象はナイのだが)、「私」は「多」へと「操作」される。ここに「時間」を加えれば、「私」は、群になる。演劇においては、私は私自身に語りかけたり、私を対象とみて語りかけたり、私の対象に語りかけたりする。「劇言語」に現れる私は、一つの役であるから、私は私に役として語りかけつつ、他者(対象としての観客)に語りかける構造を持つ。このときのコトバは、「私が役として語る」私への「操作」と看做してイイ。これも群と考えることが出来る。だが、ソシュールの場合は、必ず、話し手と聞き手が存在しなければ、言語は成り立たないような印象を受ける。・・・ソシュールも「時間」というものを無視しているワケではナイ。ソシュールは「通時態」として、言語に時間を与えている。しかし、「通時態は、目的をもたない」「通時言語学は二つの眺望を識別せねばならない。一は展望的なもので、時の流れを追うもの、他は懐古的でなもので、それをさかのぼるものである」。ところで、「劇言語」の扱う時間は、そういうものとはまるで、違って、いわば形而上的なものなのだ。ソシュールの言語学を実数軸であるとするならば、「劇言語」は、複素平面に滑り込むものだ。

おコトバではりますが・11

話を急いでもしょうがナイので、ちょうど中間点あたりのここいらで、ちょっとマトメておくと、もともとの思いつき(inspiration or motif)は、構造主義やポスト構造主義と称される、それら自体、ポスト・マルクス主義、ポスト実存主義が、言語の構造、体系を重視していること、影響されていること、そうして、それらの大元は、ソシュール言語学であること、で、しかし、ソシュール言語学をハンカチョーに誤読していくと、ウィトゲンシュタイン哲学よりははるかにマシな気配なのだが、かつ、それが「話しコトバ」に重点を置いていること、ではあるが、「劇言語」の入り込む余地がナイ(というか、私たちの要する劇言語とは、コトバに対しての考え方がチガウ)という異和感をもたざるを得なかったということ、という情況があり、それ(ソシュール言語学)に対して、「劇言語」からのいいぶんというものを提示してみたかった、のだが、ソシュール言語学を形而上学としてイチャモンつけている、デリダの思想にも納得がイカナイ、し、脱構築というソシュール言語学に対する批判的措定はオモシロイのだが、そういうことでなく、あからさまにいってしまえば、「劇言語」は、形而上学でいいんじゃないのか」という思いが強く、また、ソシュール言語学は、ヘーゲル弁証法からも反論出来そうであるし(デリダは、ヘーゲルも形而上学として退けている)、とはいえ、最初に、思い出したのが、構造主義というのは、数学から入ったほうがワカリヤスイのではないかという、経験で、では、その、『群論』という考え方を用いて、なんとなくやれるんじゃないかと、妄想(imagination)したのだ。で、ここまで、やっと辿り着いたと。・・・で、つづきだが、A4サイズの紙に任意の点aを置いて回転させるということは、その角度(すなわち距離)、に時間が加わることになり、距離と時間なら速度が出てくるはずだから、これは「力学」としても扱えるし、また、回転させるということと、群が(操作の集合として)関数を扱えるのならば、円関数(三角関数)としても考えていけるのではないか、さらに、点aは「座標」を持つことになるので、直行する数直線を実数と虚数にすれば、複素平面が扱えるのではないか、とすると、複素平面をひとつの形而上のものとして考えられるのではないか、というのが、おおまかな、だいたいの目論見であった。いまのところ、この目論見は、大きく逸脱はしていないはずだ。A4サイズの紙をラングと仮に設定して、含まれる要素としてのコトバを数詞とすると、差異は簡単につけられる。(なぜなら、1<2<3<4<5<6・・<・・nという順序の構造をつければいいからだ)。つまり、ラングというのが、[規約・法規・体系・動かしがたい先見性]ではなく、単に共通規範としての存在であることを示せば、半ば、いいことなのだ。おそらくソシュールは、「ある自然的な構造(言語)」があって、それらが「無構造の集合(パロール)」だったものが、「人為的な構造(ラング)」となり、そこから、ラングが転換して「体系」として君臨したために、主客が逆転して、まず「人為的な体系」が置かれることになり、すべての言語営為は、この体系の中に収束されるか、逆に、この体系からの写像としての存在となる宿命を持つ。てなふうに考えたのだ。その具体例として、「イヌ」はけして「イナ」とはいえない。なぜイヌなのかはまったく恣意的なことなのだが、それが実体であれ、聴覚像であれ、そういう決定性が存在する、ということなのだ。私たちは「劇言語」の立場から、この決定性を、数学の概念を援用しつつ、こえていこうとしている。

2010年7月 4日 (日)

おコトバではありますが・10

さしあたって、異議申立の方法は二つある。演劇そのものから迫るのも手段なのだが、当初の予定(というか、これを思いついたので、こいつを書き始めたワケなんだけど)である、数学の『群』という考え方を援用しながらすすめてみる。現在、数学教育に「集合」があるのかどうか知らないが、『群』というのは、[操作の集合]だ。いいなおせば、「あるもの、ある構造に何かの変化を与える操作」だ。もちろん、私は「数学ⅡB」までしか数学の知識はナイ。だから、これはまったく見当違いの試みかも知れない。しかし、ポスト構造主義者たちの多くが、その論文に数学を含め、その数学があらかた間違っていることを、数学者が一冊の著作にした話は有名だから、まあ、ハンカチョーの私がマチガッテも、世間的な影響などナイだろう。・・・さて、またコップの登場となる。ここにコップがある。コップと茶碗は、実体として観たら、区別はすぐにつく。ところで、ソシュールの言語学では、所記(シニフィエ)と能記(シニフィアン)との関係がこれを現す。前者は、コップという音声による表記だと思えばイイし、後者は、それを聴くことによって得られた像であると思えばいい。つまり実体はなくてもイイ。コップと茶碗は実体を持たなくても、そのコトバ(記号)の差異によって区別される。ところで、そのコップを二つにしてみる。どっちもコップだから、差異はナイ。次に、このコップの一つを横にして置いてみる。目の前には、立てられたコップと、横にされたコップが在る。どちらもコップであることに差異はナイ。わかりやすく二つにしたが、コップは一つでもイイ。最初は立てて、次は横にしてみる。コップというコトバに何かの差異は生じるか。『群』という考え方でいうならば、コップは立てられたものから、横にされたものへと操作されたことになる。しかし、コップという対象の構造に変化はナイ。コップはコップだ。もっと簡単な例を示す。A4サイズの紙を机上に置いてみる。べつに目の前に差し出してみても構わない。この紙を対角線の交わるところを中心にして、右に10°傾けてみる。さらに10°これを36回繰り返すと、紙は360°回転して、元のカタチにもどる。つまり、それは36回、操作されたA4の紙の[集合]ということになる。A4の紙というコトバに何か差異は生じるか。何なら、紙はそのままで、観ているほうの顔を10°ずつ傾けていってもイイ。『群』という考え方で述べるなら、Sの構造(コップ、A4サイズの紙)があって、それに働く操作の集まり(角度を変えていく)として群Gが考えられる。このとき、Sは働きを受ける[もの]であって、Gは働きそのもの、といえる。このとき、Gをoperatorという。数を[もの]と考えれば、+・-・×・÷は、[はたらき]といえる。つまり、演算というのは、[もの]と[はたらき]の対立だ。そうすると、関数fがxに[はたらいて]yになるf(x)=yも、群の応用だ。この場合のfはfunctionであり、パソコンの上部に横一列に並んでいるFがそれだ。コップというコトバの構造(表記・意味)をそのままにして「操作」する群という考え方を使うと、差異というのをコップそれ自体にではなく、操作の集合として、扱うことが出来る。もう一度これをソシュールふうにいいなおせば、Sをラングとすれば、Gはパロールということになる。しかし、この場合のSは有限集合だが、Gで(可能無限)集合をつくることも出来る。たとえば、Gを「数詞」と考えればイイ。操作の数を「位数」と称するが、数詞の位数は、無限につくることが出来るからだ。・・・ところで、A4サイズの紙を10°傾斜(回転)させるということとは、こうもいえまいか。A4上の任意の点aが、10°ぶんの距離を移動した。そこには、それだけに費やされた「時間」が生ずる。

おコトバではありますが・9

パロールは、ソシュールの考えによれば、ラング(コトバの体系)に対するコトバの構造で、それは「話しコトバ」「語り」「会話」ということになる。なぜ「書きコトバ」ではないのかというと、ソシュールが、「書きコトバ」を動かしがたい[体系]と看做したからだ。(たとえば、辞書などを思い浮かべればイイ)。もう少しワカリヤスイ例を挙げておくと、仏教の教典は、残存するものだけで、約三千二百冊もある。なのに、釈迦が生存中に書かれた教典は一冊もナイ。釈迦入滅は紀元前383年とされているが、最初の教典が編纂されたのは、それから100年もアトになってからだ。では、それまで、どうやって釈迦の教えを伝えあってきたのかというと、「結集(けつじゅう)」という、いわば、仏教者代表全体会議のようなものが何度もあって、釈迦の教えの仕分けをやっていたのだ。ソシュールがこの事実を知っていたら、泣いて嬉しがるかも知れない。なにしろ、そこにはパロールが飛び交っていたのだから。『一般言語学講義』では、ソシュールは、呪詛するかのように「書きコトバ」を嫌悪しているふうに読める。というのも「書きコトバ」というのは、ソシュールによると、ラングのアーカイブスのようなものであり、たとえば「富士山」と書いてしまえば、その意味は聴音の像とは、まったく隔絶されて、一つの意味規定を成すからだ。(聴音の場合は、必ず、そこには、話す主体と聞く主体とが存在するので、コトバの像は、自由だという主張だ)。・・・ところで、私たちが、異議申立(けして、ソシュール言語学を侮蔑、批難しているのではナイ)をしようとしているのは、、私たちは演劇というものにおいて、戯曲という「書きコトバ」をもっており、この「書きコトバ」は「話される・語られる・対話、会話される」ことを前提に書かれているという特殊性によって、散文(小説・詩・essay・評論)とは、位相を異にしているからだ。もし、ソシュールがいうように、あるいは、その後にソシュールの影響を受けた思想がいうように、コトバというものが、人間存在に先立って存在する動かしがたい体系であるのなら、私たちの表現はえらく虚しいものになってしまう。ソシュールは、パロールですら、次第にラングに絡めとられていくことに注意をはらう。「書かれた語は、それを映像とする話された語と、はなはだしくまじり合うけっか、主役を奪ってしまう。そのあげく、ひとは音声記号の表記にたいし、この記号そのものと同程度の、さらにより以上の重要性を与えるようになる。いってみれば、人を識るには、相手の顔をみるより写真をみたほうがよいと思うようなものである」(『一般言語学講義』)・・・だとすれば、戯曲というのは、単なる「音声記号」の表記なのだろうか。役者(演技者)をはじめ、演出家、劇作家は、ラングという言語体系の体現者でしかナイのだろうか。ソシュールの言語(記号)学、ラングという体系にたいして、「劇言語」はどう、応えればいいのだろうか。

2010年7月 3日 (土)

おコトバではありますが・8

「つまり、ソシュールは言語記号の各要素は実体的に構造化されているのではなく、各要素と全体との関係、各要素間の関係によって構造化されていると考えたのだ。すなわち、各要素は実体的な意義を持たず、全体および各要素との関係で差異化され、それ自体の価値を持つのである」(志賀隆生・『ソシュールが生みおとした記号論』)・・・なんのことかワカラナイのは私も同じなので、うへっなどと思わないでもイイ。ソシュールの説いた、ラングと、その価値、体系について簡略に述べたものらしいのだが、このアト「コップはコップという実体としてわれわれの眼に入ってくるのではなく、コップという言葉によって、コップと他を区別し、理解するのである」という文言が前述された文言のoutput、具体例のように記されている。これをそのまま砕いていえば、まず、コップという「実体」というものはナイということになる。コップならコップというコトバがあって、一方には茶碗というコトバがあって、コップは初めて、コップとして認識されるといいたいようだ。たぶん、この解釈は、マチガッテいるか、コトバ足らずかだ。・・・ソシュール自身には著作はナイ。講義をまとめた『一般言語学講義』(小林英夫訳)と、膨大なサブテキストがあるが、『一般言語学講義』を査読するのは私の能力では至難につきる。ただ、漠然と理解出来ることは(というか、私なりに誤読してみると)、たとえば、コップというのが、言語(を記号と解釈した場合の)要素であるとして、これらが、ある集合Mに含まれるとすると、その部分集合としての要素(コップ)が別の部分集合としての要素(茶碗)と違うというのは、実体としてではなく、コップというコトバによる「差異」が決めるということになり、集合Mにコップを要素として分類する場合、そこには実体としてのコップは含まれず、概念(コトバ-言語記号)としてのコップが含まれることになる。と、なると、私たちは、目前のコップを手にして、じゃあ、これは、ナンなの、と首を傾げてもいいはずだ。たぶん、ソシュールがほんとうにいいたかったのはこうだ。「私たちがコップというとき、コップという実体を示して、コップという必要はなく、コップという発声と、それを聴覚で捉えた認識(像)があれば、それは、明らかに茶碗とは分別(差異化)されるもので、言語というものは、そういう伝わり方をするものだ」・・・話を簡単にするとこれだけのことなのだが、では、なんのためにソシュールはそんなことがいいたかったのだろう。・・・ここで、「AはBである」を思い出してみよう。これでコップをヘーゲルふうに解釈すると「コップは(コップと意識されたコップ)である」といってイイように、ソシュールふうにいえば、「コップは(コップというコトバ)である」といってイイはずだ。何故なら、実体としてのコップは必要なく、聴覚によって生じた像が相手に伝わればいいのだから。そうすると、ヘーゲルが[意識]の中に「対象」をとりこんだように、ソシュールの場合は、コトバの中に「対象」をとりこむことが出来る。つまり、「私は(私に私と意識された私)である」と同様、「私は(私というコトバによって存在する私)である」といえる。もしこれが、文法、法規、規律、規範、体系、であるならば、そうしてそれをラングと称するならば、ラングの内に、あらゆる「対象」はとりこまれ、「私」ですら、実体をなくしてしまう。なぜなら、ヘーゲルが、互いの人間を互いの[意識]の中に相互に運動させて弁証法として用いたように、ソシュールの場合、互いはコトバ(記号)として存在させられてしまうからだ。これを拡張すると、表現や思想もまた、コトバという記号のラング(体系の)中にしか存在をゆるされないことになってしまう。おそらく、ソシュールが持った言語への危機感というのはそれだ。そこで、対概念としてのパロールというものを機能させるのだが、さらに、ソシュールは、畏怖すべきことに気づく。

2010年7月 2日 (金)

おコトバではありますが・7

ジグソー(jigsaw)のピースはほぼそろっているのだが、これをどういう順番で、置いていけばいいのかが、明確にワカラナイ。だから、ある程度はアフォリズムのような書き方になるかも知れない、と断っておく。まあ、そのほうが、思いのまま書けるからオモシロクなりそうな気もするけど。・・・で、突然、フーコーの話をするが、フーコーは『狂気の歴史』という著作を記している。これは、狂気だけではなく、人間の病気というものについて、それを各々の時代がどう扱ってきたかという、いわば「正気と狂気」というものは誰によって、どう分別されたかを主軸に、「権力」の問題を論じている。フーコーは、ニーチェの影響を強く受けているので、書くものも、いうことも、哲学というより文学的だ。たとえば、デカルトの「我 思う ゆえに我あり」(すべてのものを疑い、自らを疑ったとしても、疑っているという「私」の存在は認めないワケにはいかない)に対しても、「ほなったら、デカルトが精神病やったとしたら、どないなんねん」というのだ。これには、大笑いするしかナイ。ヘーゲルが、人間の自己意識を探求して、絶対的な「知」に到達すべく弁証法を説いたことに対して、ニーチェは「そんなうまい具合に、人間というものは出来ていない」と、一行のアフォリズムでこれを揶揄した(かどうかは、ほんとは知らんけど、ニーチェなら、それくらいのことは、どこかでいってるでしょ、たぶん)。・・・ところで、「構造主義」の[構造]というのは、いったいナニをいわんとしているのか。日本の政治家のように、当初「構造改革」と、さんざんいっておきながら、途中で、この「構造」を仕舞い込んで、単純に「改革」とだけにしたのとは、ワケが違うぞ。「構造主義」が、もともとは、ヘーゲルやマルクスの「歴史主義」というものに対して起こった学問であるから、後者を時間軸による人間の捉え方とすれば、前者は空間軸による人間の捉え方、というふうに説明も出来るが、ナンのことだか、ね、と、いわれそうだから、付け加えておくと、というか、レビィ・ストロースの『構造主義とは何か』からそのおおよそを引き出してみると、・・・たとえば、人間の顔を思い浮かべてみる。目鼻耳口眉毛と、人間であれば、どんな人間でも、ついている位置は、顔全体の部分ということにおいて同じなのだ。然るに、美人とブスが出来上がり、イケメンと醜男が出来上がるのは、何故か。それは「構造の違い」だよ、といえば、なんとなく理解出来そうか。この「構造」は、他の動物でも同じ配置としてみられる。しかし、私たちは、人間の美人とブスは区別がつくが、ゴリラの美人とブスは区別がつかない。これはナンでなんだろう。てなことを考えるのが、構造主義だと思えばイイ。ここには、歴史(という時間軸)は、あまり作用しない。たとえば眼球の構造は、人間もゴリラも同じだが、昆虫は違う。とはいえ、それが、モノを視覚的に捉える部分であることに違いはナイ。進化論において最も困難なのは、眼球だといわれている。というのも、眼球というのは、基より、眼球として存在しなければならず、じょじょに進化して出来上がるシロモノではナイからだ。つまり、次第にモノを観る必要があって進化してきたというモノではナイのだ。「構造主義」は、歴史というもの(時間)を除外して、本来的に人間(その社会)の持つ隠れた「構造」をあぶりだそうとする。そうして、「歴史」に対しては「体系(system)」というものを対置する。・・・と、まあ、これは、予習だ。面倒だが、この程度は知っていてもらわないと、この先、読者が減るからな。次回は、こういう「構造」を踏まえて、のっけから、ソシュールの「そこんとこが、アカンかったのよ」から始める。

2010年7月 1日 (木)

おコトバではありますが・6

さて、やっと、劇言語(表現論)の出番がやってきた。私の表現論の基本的なおさらいをしておこう。私の表現論では、対象と主体(意識)をどう扱うか。たとえば、①カラスは黒い、②バラは赤い、③ギラギラは怖い、という三つの主語述語でなる表現があったとする。この中で正しい表現はどれか。・・・たいていは、①だけだと思うはずだ。たしかに白いカラスはいるかも知れないが(突然変異か、白ペンキに突っ込んで)、バラには赤いのや黒バラも青いバラもある(純粋な黒バラは存在しない)。ギラギラは怖い、といわれても、ギラギラというのがナンなのかワカラナイ。そこで正解は①ということになる。しかし、私の表現論では、主体(私)と環境世界(対象)は、相互に表現をしあって存在している。命題で現すと、「私は世界の表現である」「世界は私の表現である」。従って、劇言語も、ここから始まる。よって、②も③も正解と看做される。何故なら②は「バラ」の表現であり、主体は「バラ」であるからだ。③は「ギラギラ」というものが「怖い」ということが伝わればヨイ。(これは、意外に重要なところだ)・・・表現というのは、ココロの衝動的表出である。なぜ、そのような衝動があるのかは、a prioriだとしかいいようがナイ。劇というのは、「生命体が、その進化の過程において、培ってきた物語」だ。そうして、劇言語は、それを表現しようとする手段だ。言語である以上、コトバだ。コトバであるが、コトバはココロの表出をそのまま表現するということは出来ない(ここも重要なところだ)。従って、ココロの表出に如何にして近づけていけるかというのが、この場合、劇言語の使命ということになる。逆にいうならば、非言語表現というものも存在する。ただし、「身体言語」とか、「映像言語」というものは、存在しない。(手話という言語は在る。また、身体は、「身体としての私=外界」として、意識とは別に扱う)。・・・ここから、劇言語が、形而上学であるということを論じていく。念のために「形而上学」というの何かということを述べておく。漢字から判断すれば、「形而上(しこうして、カタチよりウエ」(ここでの「しこうして」とは、然りなりて、という意味)だから、カタチではナイもののことだ。別のコトバでいえば、抽象的ともいえるし、観念的ともいえる。また、哲学では感覚を「超越したもの」というふうに用いられる。簡単にいってしまえば、身も蓋もナイが「神」というのは、そういう存在だ。では、そんなものは非科学的であって、まともに扱えるのかというと、扱えるのだ。何故なら、私たちがお世話になっている「数学」という学問は、殆ど、この形而上学で成立しているからだ。数学がそうであることによって、物理学(量力学)や天文学もまた、そうである。数学(の数、記号、数式)は、現実にカタチあるものではナイ。「意味するもの」だ。これは、単純に意味とコトバが一致さえすれば、言語というものが成立するソシュール言語学や、ウィトゲンシュタイン言語哲学には都合がいいように思われる。しかし、逆にいうと、どちらの言語学もコトバの「意味」を取り上げているだけにしか過ぎないともいえる。「意味が通じない」「意味が間違っている」というのは、コトバに対して用いられる批判のほとんどだ。「お前のいってること、意味、ワカンネエよ」ともいわれる。これは、(相手のコトバを対象にした)認識(意識)が、相手のコトバの意味を捉えようとして、自身の信じている意味との一致をみないことに対する抗議だ。このことを、私たちはカント、ヘーゲル、フッサールの意識と対象の関係の在り方から、ほんとうは、「意味が通ずる」ことのほうがどうかしていることを展開してきた。しかし、意味は同一性(誰に対しても同じ)でなければならない。従って、ソシュール言語学の「ラング」や、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム理論」が、ある[規準]、[体系]、[法規]として、取り上げられてきた。私たちは、この言語学に、劇言語から異議申立をしようというのだ。

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