おコトバではありますが・4
「AはBである」という命題にもどる。前述したように、突き詰めれば哲学の課題はここにいきつくだけだ。アルベール・カミュは「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ」(『シーシュポスの神話』)で述べているが、それは、文学の課題のように思える。私たちは、この「AはBである」という命題に、劇言語をもって斬り込んでいこうとしている。・・・ヘーゲルは、『精神現象学』において、カントの「仮象」を次のような論理で超えていく。たとえていってみる。いま、目の前に水の入ったコップ(グラス)がある。私はそれを観ている。観察している。観測している。つまり、コップは「対象」であり、観ている私は、それを観ている主体だ。カントにおいては、このコップの「概念」を求めていく。「透明である、ガラスである、器である」といったふうに。そうすると「コップ(グラス)は、透明なガラスの器で水を入れることができる」という命題が出来上がる。ここでは、主体と対象は別々のものだ。主体の[意識]がコップという対象を概念化している。ところが、ヘーゲルは、この[意識]に「運動」を与える。どういうことかというと、意識はすでにコップというものを捉えた状態にあるので、コップという対象は、意識の中に繰り込まれる。そうすると、命題がこう変化(転換)される。「Aは(AはBである)である」。「コップは(コップはコップである)である」。つまり、コップはもはや「対象」ではなく、[意識]そのものとして扱われることになる。そこで、「私は私である」という、対象に「私」(カントでは直感的な私それ自体と、私それ自体を認識している私だった)を導入すると、どうなるか。「私」という対象存在も、[意識]の中に繰り込まれるので、「私」は「私という意識」になる。これを命題で書くと「私は(私は私である)である」だ。つまり、ここにおいて、対象はすべて[意識]のうちに扱われることになる。そうすると、この意識(自己意識)を探求、展開、していけば、私というものが何であるのかが、客観としてワカッテくる、というlogicだ。逆に、対象はすべて[意識]と看做すことが出来るので、この世界を、一つの意識として扱うことが出来る。同様に、この世界の客観も意識の中で取り沙汰される。これが「観念論」というシロモノだ。従って、ヘーゲルの哲学は、その道程、指針をとることになる。で、[意識]というものは、取り出してみせることの出来ないものだから、「形而上学」というワケだ。・・・さて、同じ『現象学』でも、フッサールの考え方は、ヘーゲルほど楽観的ではナイ。デカルトと同様、その[意識]を疑うのだ。
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