おコトバではありますが・1
さんざんに散らかった脳味噌(思考)をピースとして、ジグソーパズルを組み立てていくことになる。当初はタイトルを『形而上学の物語』とでもするかと思ったが、ハッタリが強すぎるので、ここは謙虚に、半可通(ほんとは三分の一)らしく、すすめていく。まず、もっとも簡単な命題(These)を提出してみる。「AはBである」だ。これでいくと「私はあなたである」とはいえない。では「私は私である」と、いえるのだろうか。実は、古今東西裏表、プラトンからマルクス、実存主義からポスト構造主義まで、哲学、思想の問題はここに尽きている。もちろん、私は門外漢なので、演劇(細かくいえば劇言語)からの問いかけとして、これを考えていく。まず、プラトンという哲学(者)の始祖はどう考えたか。プラトンはイデア(idea)というものが存在し、そこには「正しい私」というもの(設計図みたいなもの)が描かれており、現実の「私」とはズレていても、「真の私」は存在する、とした。その弟子、アリストテレスは、もし、「私」というものが、存在するのであれば、「私」を創っている(この場合は心身ともにである)材料というものが、存在するはずだと考えた。何れにとってもいえることは、「私」というのは[本質]な存在だということだ。(本質な存在というのをくだいていえば、私というものは、本(もと)より「私」という質として創られてているということだ)。ところが、ハイデガーやサルトルなどの実存主義哲学者は、これに反して、ハイデガーによれば、「私」というものは、現実的にその意志によって存在していく(現存在)ものであり、サルトルによれば、人間は本質に先立つ(もともとこうだという存在ではナイ)現実的な存在(実存)である、ということになった。これを先の命題に当てはめてみると、「私はナンである」ということになる。横道にそれていうと、哲学者ではナイが、文学者のアルベール・カミュは「私はナンである」けれど、それは条理に沿った存在ではナイというだけで、必ずしも存在の[自由]を保証されているワケではナイ、「不条理」な存在だ、とした。さて、このあたりまでは前説(枕)だ。ここにソシュール言語学というものが登場する。ハンカチョー(半か丁or半可通)の私は、のちのち、ポスト構造主義が誤ったもっとも大きな原因(要因)は、この、機能的、構造的、形式的な言語学にあると考えている。というのも、実存主義以降の哲学、思想は、この言語学に大きく影響を受けているからだけでは、なく、不思議なほどに無批判に自身の思想展開に、この言語学を応用しているからだ。なぜ、ソシュール言語学を論理に引きずりこむと、危うくなるかといえば、この言語学の特質が、ヘーゲル哲学とは相いれないからであり、ヘーゲル哲学を批判するのには都合がいいが、ヘーゲル哲学を間違ってしまう懸念があるからだ。さて、ジクソーの枠は出来た。(あのパズルは枠をつくるのは、さほど難しくナイ)そこで、カントが「AはBである」をどう考えたかを、みてみることにする。
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