表現という商品
資本主義において(もちろん、社会主義を標榜する現中国にしてもそうだが)、いい商品というのはよく「売れる」商品のことだ。これが、資本主義経済の金科玉条(略して金玉)である。ところで、「いい商品」=「よく売れる」ということを、経済学的にいえば、その商品の「交換価値」が高いということをいう。東大の経済学部博士課程を卒業して、帝京大学の準教授である経済学者(専攻は数理経済学)が、「使用価値」の高い商品がいい商品だなどと、ぬかすのを呆れ顔に観たのは、もうずいぶん前だが、いろはのいから、いえば、どんなに使用価値が高くても、交換価値がなければ、その商品が紙幣(貨幣)という商品に交換出来るワケはナイ。こやつは、価格は市場で決定されるという、まことしやかな説まで吹聴していたが、バラエテイのゲスト評論家でもあるまいし、そういうアホなことは、間違っても口にしてはイケナイ。商品の価格が、労働(力)と資本の利潤によって決定されるのは自明のことだ。資本が利潤を無視して、市場に商品を並べることなど、あり得ない。そのアトは、消費者と販売者の競りが残るだけだ。資本主義は、ありとあらゆるモノを「商品」とするので、表現もまたご多分に洩れず「交換価値」とならざるを得ない。新聞紙上に掲載される、今週のベストセラー書籍に、いつもながら、ある宗教法人の総裁が書いた本が数冊入っているのは、それが「いい商品」、つまり交換価値が高いからだ。もちろん、中身などどうでもよい。鰯の頭であろうが、護摩の灰であろうが、なんでもいい。表現が交換価値を持つ商品となることは、避け得ない実情だが、苦しいのは、表現者の懐だけではナイ。表現者の倫理も苦しい。生前はたった一枚の絵も売れなかったゴッホに倣って、とりあえずは、アルバイトや派遣社員で糊口をしのぎ、表現は銭にしないと、諦めているあいだはまだ救いがある。いざ、音楽の一曲、文章の一節が売れる事態になった場合、現今の資本は、表現者の売れるもの(交換価値の高いもの)は平伏して相手にするが、売れないものに対しては、如何なる面倒もみない片道切符しか用意しないからだ。こんなことは、ほんの1年くらいでブラウン管に現れては消えていく芸人にもみられるし、歌い手にもどうようのことだが、中には、何を勘違いしているのか、これだけ舞台活動を続けていても、テレビからはお呼びがかからず、食えやしないのはひどい、などと、いいだす連中のいることだ。台本に目を通して、くだらねえと思いつつも、芸(のようなもの)を切り売りして生活している者は、逆に、せめて舞台だけでもsanctuaryとして守らねばと、マスコミ媒体の放牧場のようになった昨今の舞台を苦々しく感じているし、本来ならば、テレビなんざ武者修行の場だと思えばいいはずなのだが、真剣勝負の場のように考え違いをしている数多の役者に呆然としているのが現状だ。名優原田芳雄が、仕事に行くとき「ちょっと芸能界にいって来る」といって出かける話は、このあたりの苦渋をウィットにして、小気味いい。私も、「さて、北村想をやってくるか」と、自らの交換価値をレッテルにして、(めっきり減ってしまったのではあるが)仕事にいかねばならない。
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