おコトバではありますが・3
のっけにまた余談になるが、ロシア、革命の父レーニンは、マルクスを学んだアトで、マルクスに影響を与えたヘーゲルの弁証法を学ぶために、図書館通いをして、ヘーゲルを学問している。これくらいの努力があってのレーニンなのだ。(あたしゃ、その10000分の1にも及びませんがネ)。「革命に必要なのは軍事力だ」などとほざいた毛沢東をいつまでも同志なんて呼んでる党派が未だに、日本の政党には残っているけど(私は、この党派によって書かれたスターリン賛美の本なら、高校生のときに図書館で読みましたが)、いっちょ、軍事力でもって、革命でもやったらどうだ。・・・与太をとばすのはここまでで、ヘーゲル『精神現象学』をチラっとみていく。「緒論」において、すぐさま、哲学の問題と、この学が如何なるものかが展開されている。ヘーゲルはここで、カントの「物自体」という発想を、認識と認識される対象との間にある境界、憂慮、として、認識をなんらかの「手段」や「道具」と考えている限り、「対象そのもの」には到達できないという議論にゆきつく、と批判する。それは、「認識」と「観察主体であるわれわれ」を切り離して、認識を道具や媒体という「表象」としたうえで、一方に「対象」を置くという誤謬なのだ、というのだ。(ヘーゲルは、「われわれ」という人称で論文をすすめるが、これは、ヘーゲル-マルクス学徒でもある吉本隆明さんが「わたしたち」という人称で論文を書くスタイルに、少なからず影響を与えたのだと思われる)。ヘーゲルはまた、いう。「ある学が己れこそ[真]であると断言しても、他の学もまた同じようにそう断言することの権利がある」と。これをヘーゲルは「仮象」と称している。(この論理もまた、吉本さんの[関係の絶対性]の概念を産み出した『マチウ書試論』に受け継がれているとみていいような気がする)。ところで、ヘーゲルは、「懐疑主義」について、「ある認識がそうではなかったという経験が繰り返されると、懐疑主義に陥りやすいが、この「否定」を「限定された否定」として受け取るなら、この否定のうちに「移行」という進展が生じて、新しい事態への展開の道が開ける」と、ヘーゲル、マルクスなどの「歴史主義」を熾烈に批判した、カール・ポパーの「反証主義・反証法」(このあたりは、科学哲学宗派の金玉なのだが)を擁護する論述まで提出している。(たぶん、ポパーは、読んでナイか、マチガッテ読んだかなんだろうけど)。・・・さて、「緒論」は、すでに緒論において、学の核心に迫っていく。「人間の[意識]は、つねに、自分の存在を対象化できる(してしまう)という本質を持っている」とくる。これはいうなれば、「私」は「私」を「対象」として扱ってしまう、ということであり、このあたりは、カントの「物自体」という「仮象」の難問を解くカギとなるだけでなく、後年のハイデガーやサルトルの実存主義哲学における「現存在」「実存」を予感させるところだ。・・・ここから、ヘーゲルが、どういう方法(思考・理論)で、「仮象」を退けたか、そうして、ポスト構造主義のジャック・デリダのいうヘーゲル批判への疑問、さらに、「脱構築」(オモシロイんだけどネ、これ)や、形而上学批判への疑問を、劇言語から扱ってみるつもりだが、我が輩は、明日からまた旅寝の空で、しばし開店休業になる。まあ、ハンカチョーの「とんでも本」でも読んでるつもりで、読んでくれてりゃイイ。
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